豊臣秀吉の華々しい栄光の影には、巨大な権力に翻弄されて歴史の表舞台から姿を消した市井の功臣たちがいたのです。
秀吉の義弟(妹婿)であり、豊臣秀長の与力として実直に仕えた副田吉成(通称:甚兵衛)は代表格と言えるでしょう。
武士の栄達よりも己の矜持を貫いた彼の、哀愁に満ちた波乱の生涯をたどります。
秀長を支えた吉成の暗転する運命
副田吉成は尾張国に生まれたことはわかっているものの、若年期の経歴には謎が多い人物です。 しかし、織田信長の家臣であった木下藤吉郎(のちの秀吉)の妹のあさひを妻に迎えたことで、羽柴家の身内として歴史に名を刻むことになります。
吉成は秀吉から「吉」の字を賜ったとされ、秀吉の弟の豊臣秀長(小一郎)の有力な与力として才を発揮したのです。
1577年からの但馬国遠征に従軍した吉成は武功を挙げ、但馬・多伊城(指杭城)の城主に抜擢されます。
一国の一城主として妻のあさひと平穏に暮らすことのできた城主時代こそ、彼の人生で最も幸福な時間だったといえるでしょう。
1582年に日本史を揺るがす「本能寺の変」が勃発すると、羽柴軍が明智光秀を討つべく上方へ急行(中国大返し)するなかで吉成も播磨方面への出陣を余儀なくされました。
しかし、主力の不在という隙を突かれて吉成が留守にしていた多伊城は、地元の海賊や一揆勢の襲撃を受けて落城してしまったのです。
天下取りへ向けて家中を統制したかった秀吉は軍事的な失態を重く見て、落城の責任を問われる形で吉成は最愛の妻あさひとの離縁命令を言い渡されたと伝わっています。
静かに身を引いた武士の矜持
秀吉と徳川家康が対立するなかで事態は決定的な悲劇を迎え、秀吉は家康を臣従させるため家康に44歳になっていた妹のあさひを嫁がせるという政略結婚を企てたのです。 すでに形の上で離縁させられていたとはいえ、秀吉は吉成に対して正式な離婚の引き換え条件として「5万石の大名への加増」を提示したとされています。
しかし吉成は、「妻を売って大名になるつもりはない」とこの巨額の恩賞を断固として拒否したのです。
吉成はそのまま髪を剃って出家し、穏斎(おんさい)と号して故郷の尾張国烏森(現在の名古屋市)へと隠棲しました。
1615年ごろに吉成は隠棲先でひっそりと息を引き取ったとされていて、一方の朝日姫も家康のもとへ嫁いでわずか数年でこの世を去ったのです。
天下人の強大な権力を前に戦国武将たちの多くが領地や出世のために魂を売るなか、副田吉成は大名としての栄華よりも失った妻への愛と武士としてのプライドを選びました。
彼の寡黙で実直な生き様は、戦国の世の非情さとその中で守り抜かれた人間の尊厳がいかに気高いものであったかを数百年後の現代に静かに語りかけているのです。
まとめ
秀吉の妹であるあさひを妻としたことで羽柴家の身内となった副田良成は、秀吉の弟の豊臣秀長の与力となって才を発揮し但馬の多伊城の城主となり妻と平穏に暮らしました。 しかし本能寺の変が起こって播磨方面へと出陣すると、留守にしていた多伊城が地元の海賊や一揆勢に襲撃されて落城し、秀吉に責任を問われて離縁を命じられたのです。 その後、秀吉に妻と引き換えに大名となることを打診されるも断り、隠棲しました。

