小田原城は、戦国時代における南関東の政治的中心地であり、北条氏の居城として有名です。
豊臣秀吉の天下統一において、総仕上げとなった場所としても有名な城ですが、これまでどのような歴史を歩んできたのでしょうか?
小田原城の歴史と、特徴について解説します。
小田原城の歴史
小田原城は、元々平安時代末期の相模国の豪族である土肥氏一族の小早川の居館が元とされています。
1416年に土肥氏が失脚すると、大森氏が奪って築城したと伝えられています。
1495年になると、伊豆国を支配する伊勢平氏流伊勢盛時、後の北条早雲が大森藤頼から小田原城を奪い、旧構を大きく広げました。
ただし、城を奪った時期はもっと後だったという説もあり、盛時もなくなるまで韮山城を拠点としていて息子の北条氏綱が小田原城を拠点としたとも言われています。
それ以降、小田原城は氏綱から北条氏政、氏直親子まで5代にわたって戦国大名北条氏の居城となり、南関東の政治的中心地になりました。
3代当主の氏康の時代には、難攻不落、無敵の城とも言われていました。
1561年に、後北条氏と北関東で敵対していた上杉謙信が、越後から小田原城へと攻め入り小田原城の戦いが起こります。
11万以上の兵で小田原城を包囲されて1カ月以上籠城し、上杉軍の攻撃を防ぎ切ったと言われているのですが、実際に包囲されていたのは10日ほどとみられています。
1568年に武田信玄が駿河今川領国へと侵攻を開始して、後北条氏は甲相同盟を破棄して越後上杉氏と越相同盟を締結し、武田に対抗します。
それに対して、信玄は後北条領国に圧力をかけ、軍事的示威行動として小田原城を包囲して後北条氏が撤退すると、三増峠の戦いで撃退しています。
後北条氏は何度か小田原城を改築しており、その中でも2度は大きなものがあったと言われています。
最初は、小田原城を得た直後に起こった大地震の被害を回復するものでした。
もう1つは、1566年から多数発給されていた小田原城の改築に関する文書を根拠としたもので、当時頻発していた上杉氏・武田氏の侵攻に備えるためのものと言われています。
1558年には、古河公方足利義氏が北条氏康の邸を宿舎としていたと伝えられています。
1590年になると、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げようとしており、その総仕上げとして隠居北条氏政と当主の氏直が指揮する北条氏と開戦します。
当時、関東には佐竹義重や宇都宮国綱など尾が北条の台頭に対抗していて、数十万の大軍による小田原城の城攻めにも参加していました。
この戦いは小田原征伐と呼ばれ、秀吉は圧倒的な物資を背景として城を取り囲み、別動隊で北条氏の支城を各個撃破し、籠城して相手の兵糧不足を狙った北条氏の意図を砕いて3カ月間包囲を続けてほぼ無血のまま開城させることに成功しています。
戦後は北条氏の領土が徳川家康に与えられ、家康は腹心の大久保忠世を小田原城に置きました。
元々は巨大な城郭を持つ城でしたが、大久保氏によって規模が縮小されています。
明治になると城内の建造物のほとんどは取り壊されてしまい、天守台には大久保神社が建立されました。
1901年には、旧城内に小田原御用邸が設置されています。
しかし、1923年の関東大震災によって御用邸は大破し、そのまま廃止されました。
また、現存して修復工事も行われていた二の丸平櫓も倒壊し、石垣もほとんどが崩壊してしまいました。
1930年には石垣が、1935年には二の丸平櫓が復興したものの、どちらも規模がかなり小さくなっています。
1950年には天守台の整備を開始しており、小田原城址は小田原城址公園として整備されました。
1960年になると、天守の再建工事が完成したのですが、再建された天守は鉄筋コンクリート造となりました。
2006年には、日本100名城の23番に選定されています。
小田原城の特徴
小田原城で最大の特徴と言われるのが、広大な外郭です。
これは豊臣軍に対抗するためのもので、八幡山から海まで総延長9キロメートルの土塁と空掘で取り囲まれています。
この総構えは、1614年に徳川家康が自ら数万の軍勢を率いて撤去しました。
これは、地元地方にこれほど大規模な総構えがあることを警戒したともいわれていますが、完全に撤去はされず現在まで一部が残されています。
また、小田原城と言えば小田原評定が有名です。
これは、後北条氏が月2回開いていた重臣会議のことで、行政機構としての働きを持ったものでした。
小田原評定は故事成語になっていて、小田原合戦の際に老臣松田憲秀が籠城を主張し、北条氏康の四男が出撃して野戦にすることを主張しており、意見が分かれてなかなか結論が出なかったことから、長引くだけで結論が出ないものを示す比喩として使われます。
まとめ
小田原城は、難攻不落の城として有名な城であり、攻められた際は籠城して対抗していたことが伝えられています。
豊臣氏によって攻め囲まれたときも、3カ月にわたって籠城したうえでの無血開城だったことから、攻めるのは難しいと判断されたのではないかと思われます。
復興された天守は、小田原市のシンボルとしても親しまれています。
城址公園は桜の名所としても知られ、動物公園もある珍しい施設となっています。