戦国武将は勇猛果敢な人物が多いですが、その中でも自ら突進して争うのが井伊直政でした。
井伊直政は、徳川家康の天下取りにおいて最大の功労者になります。
さらに、戦国武将としての魅力だけでなく、幼少期の御家騒動でも苦労した人物であると言うことができます。
ここでは、井伊直政の生涯とエピソードをご紹介します。
井伊直政の生涯
井伊直政は遠江国、井伊直親の嫡男として、1561年に生まれます。
幼名は虎松で、父である井伊直親は今川家の家臣でした。
幼少期、桶狭間の戦いで井伊家当主が戦死し、井伊直親も謀反の容疑で謀殺されてしまいます。
この当時、井伊直政はわずか2歳でした。
父亡き後、自身も命が狙われますが、助命嘆願のおかげで生き延びることができます。
しかし、1568年の武田軍の侵攻時に家老の小野道好が井伊直政を亡き者にし、出兵しようと企んだため出家することになります。
上述のように、命を狙われる過酷な幼少期を過ごしました。
井伊直政に転機が来たのは、1575年。
徳川家康に見出され、井伊家に復帰することになります。
実は事前に井伊直政を徳川家康のもとへ出仕させ、目に留まるように画策していたのです。
この時、名を「井伊万千代」と改め徳川家康の雑用係である小姓となり、井伊家の再興を果たすことができました。
1582年、22歳の時に元服し、「井伊直政」とこの時から名乗りました。
その後は、本能寺の変で徳川家康の伊賀越えに従ったり、天正壬午の乱で北条氏との和平交渉の担当になったりと活躍していきます。
さらに、徳川家康が甲斐国、信濃国を合併すると、井伊直政は旗本先手役の侍大将に就くことになり、重臣の一人として数えられるようになりました。
1584年、井伊直政は小牧・長久手の戦いで、「赤備え」を初めて率いて武功をあげます。
また、1586年に豊臣秀吉に仕えた時も、豊臣姓を与えられるくらい、多くの武勲や政治的手腕が評価されました。
その影響もあり、豊臣秀吉が亡き後の政治交渉役を任せられます。
1600年の関ケ原の戦いでは、東軍の軍監として本多忠勝と共に任命されます。
関ケ原の戦いで井伊直政は、武功と共に多くの西軍の戦国武将を東軍に取り込みました。
戦中に足を狙撃され大怪我を負いますが、戦後は戦後処理と江戸幕府の基礎固めに奔走します。
1602年、彦根城の築城途中に井伊直政は、佐和山城で42歳の生涯を終えました。
井伊直政のエピソード
井伊直政といえば、兵全体で武具などを赤一色で揃えた部隊「赤備え」が有名です。
このきっかけは、井伊直政の元服時にあります。
天正壬午の乱で徳川家康が、井伊直政に北条家との交渉役を命じた際、見事に役目を果たしたということで、その褒美として武田家の旧臣が与えられました。
そもそも、赤備えの考案者は武田信玄です。
そして武田軍の旧臣の中には、武田家最強の武将山県晶景の遺臣もいたため、それを土台として結成した軍になります。
赤い部隊が印象的な井伊直政ですが、元々は武田軍の名残を引き継いだ形であったとも言えます。
赤備えを知らしめたのは、先程も少し触れた通り、小牧・長久手の戦いになります。
特に長久手の戦いのは、両軍が互角だったのを井伊の鉄砲300艇が意表を突いた結果、豊臣軍を総崩れにしたのです。
そして戦術面の評価と共に、赤色の兜に鬼の角のような飾りをつけ、先陣を切って長槍で戦う井伊直政の姿は戦に参加した戦国武将の印象に強く残りました。
その様子から「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになり、井伊直政の存在は全国に知れ渡ったのです。
戦での華々しい活躍がある一方で、井伊直政は「人斬り兵部」とも呼ばれていました。
人斬り兵部と呼ばれた由来は自他ともに厳しく、周囲から恐れられていたところにあります。
特に武田軍の旧軍を預かったあたりから、自分を評価してくれた徳川家康のためにと、一層厳しい行動をとるようになります。
中でも、井伊の赤備えへの対応が非常に厳しかったと言われており、ちょっとした失敗でも手討ちにすることは珍しくありませんでした。
このような井伊直政の厳格な性格からついた異名になり、実際に逃げ出してしまう家臣もいたそうです。
この厳格さは、果たして本人の性格によるものなのでしょうか。
あるいは幼少期からの生活で、人間的に強くならざるを得ない環境だったことも関係しているかもしれません。
しかし、徳川家康に対する厚い忠義心を考えると、戦で勝利を掴むための行動の一つだったと考えることもできます。
赤備えが常に勝利を得ていたのは、人斬り兵部あってこその成果だったのでしょう。
武田軍の旧軍を得る出来事がなければ、もしかするとここまで有名にならなかったかもしれません。
いずれにせよ、元々今川家に仕えていた井伊家であるにも関わらず、小姓として見出してくれた徳川家康の恩義に報いる人生を送った人物になります。
まとめ
井伊直政は、徳川家康に見出され、元々徳川家に仕えていなかったにも関わらず重臣にまで立身出世した人物です。
さらに武田軍の旧臣を引き継ぎ結成した赤備え部隊で、何度も功績を得ることができました。
人斬り兵部と恐れられるほどの厳格な性格でしたが、それも部隊の勝利に結びつく要素だったのでしょう。
徳川家康に見出されたことで、人生が変わったといっても過言ではありません。