天下人となる人物の傍には、時の文化人や商人が関わっていることが多いです。
茶屋四郎次郎は、徳川家康と関わりがあった商人になります。
武将でないため、活躍の場が戦ではありませんが、徳川家康とどのような繋がりがあったのでしょうか?
今回は、茶屋四郎次郎の生涯とエピソードについてお話しします。
茶屋四郎次郎の生涯
徳川家康と関わりのある茶屋四郎次郎は、3人います。
「茶屋四郎次郎」とは、将軍家の側近として呉服物を納入した公儀呉服師を世襲した京都の豪商の通称名になりますので個人名ではありません。
まずは、世襲した3人の人物について簡単に見てみましょう。
初代は茶屋四郎次郎「清延」で、三方ヶ原の戦いで活躍をした人物でもあります。
その活躍の結果、橘の家紋を賜るだけでなく、本能寺の変後に堺にいた徳川家康に早馬で一方を出し、伊賀越えにも協力しています。
伊賀越え時の恩から、御用商人として取り立てられたことが徳川家康に接近するきっかけとなりました。
窮地を救ってくれた恩人の一人とも言えるでしょう。
2代目の茶屋四郎次郎「清忠」は、初代の長男で引き続き御用商人を務めました。
豊臣秀吉の死後には京都と大坂の物流の取締役に任命、関ケ原の戦いの後は江戸幕府の一組織である京都所司代を設置するきっかけとなる情報を伝えた人物になります。
商人としてだけでなく、政治的な面からも徳川家康をサポートしていたことが分かります。
3代目の茶屋四郎次郎「清次」は、2代目の弟であり、兄が急逝したことで跡を継いだ経緯があります。
長崎奉行や長崎代官補佐役に就任し、長崎を拠点として政治に関わりました。
そして、3代目の清次は朱印船貿易で特権を得ることができた人物でもあり、ベトナム北部に船を派遣した結果、莫大な富を得ています。
若い頃から徳川家康を見てきた武将は多くいますが、商人の立場となると別です。
本業と同時並行で、数々の情報や物資を提供してきた茶屋四郎次郎は、徳川家康が天下人になることができた影の功労者と言ってもいいでしょう。
茶屋四郎次郎のエピソード
まずは、徳川家康と特に親交の深かった3代目の茶屋四郎次郎「清次」の食べ物にまつわるエピソードをご紹介しましょう。
徳川家康の死因にまつわるエピソードの一つに、鯛の天ぷらを食べたことによる説があります。
有名な説の一つですが、これの基となったのは清次が鯛の天ぷらを紹介したところにあります。
徳川家康が鷹狩を行った際、清次に関西で何が流行っているのかを聞いたそうです。
商人なので、当然流行りものの情報は掴んでいます。
その時、鯛の天ぷらにすりおろしたニラをかけた料理と答えたそうです。
もちろん徳川家康に勧める前に自分もその料理を食べていたため、いい香りがして美味しいと話しました。
親しい間柄の人物が実際に食べて美味しいと言っているからには、徳川家康も食べてみたくなります。
話を聞いた徳川家康は、早速調理を命じ食べたそうですが、なんとその日の夜に腹を壊してしまったのです。
これは1616年に起こった出来事ですが、実際に徳川家康が亡くなったのは数か月経ってからのことでした。
鯛の天ぷらが死に直接関係していたとは言い難いですが、食べてから体調不良を起こしたことで多くの人の印象に残りやすかったのでしょう。
どちらかというと、天ぷらの食べ過ぎで腹を壊したと表現するのが正確だと言えます。
次にご紹介するのは、茶屋四郎次郎の現在についてです。
徳川家康と関係があったのは初代から3代目までですが、現在でも茶屋四郎次郎の名が残っています。
とはいえ、何事もなく名が続いていったわけではありません。
実は、明治時代に一度廃業しているのです。
3代目の清次が亡くなった後も子孫が名を受け継ぎますが、江戸幕府が鎖国体制になると衰退してしまいます。
3代目の清次は朱印船貿易で莫大な富を得ましたが、鎖国してしまうと朱印船貿易の特権が失われてしまい、豪商としての地位を保てなくなりました。
ところが、茶屋四郎次郎家は「茶屋御三家」と呼ばれ、本家と尾張茶屋家、紀州茶屋家の分家が存在しており、全ての家が衰退したのではありません。
尾張茶屋家だけが、現在でも名を残しているのです。
そして、本家も分家も徳川家に仕えていた経緯があるため、将軍家に貢献したという事実は3代目以降であっても変わりませんでした。
茶屋四郎次郎は元々武家でしたが、商家に変わり、京都で呉服店を構えたことが歴史の始まりになります。
武将たちが必要な情報を手に入れ提供できたのは、武士だったことも関係しているでしょう。
もしかすると、商人として上手く立ち回れたのはそのおかげかもしれません。
3代にわたる茶屋四郎次郎は、時代が動く瞬間に常に立ち会っていたのです。
まとめ
今回は、茶屋四郎次郎の生涯とエピソードについてご紹介しました。
徳川家康と関わりがあったのは3人の茶屋四郎次郎ですが、それぞれ商人としての視点からサポートをしていました。
特に3代目の清次は鯛の天ぷらを紹介したエピソードもあるくらい、政治面以外でも親しい関係であったことが分かります。
江戸幕府の方針転換で一時衰退してしまったものの、今でも茶屋四郎次郎の名は残り続けています。