紫式部と比較された「藤原惟規」

歴史

藤原惟規は、ドラマの中で紫式部の弟として登場します。

幼少期に紫式部と比較されるエピソードが残っていますが、これだけで藤原惟規の実力を評価してはいけません。

実は、父の藤原為時や紫式部と同様に、才能に溢れた人なのです。

ここでは、藤原惟規の生涯とエピソードについてお話しします。

藤原惟規の生涯

藤原惟規は、974年頃、藤原為時と藤原為信の娘との間に生まれます。

幼少期のエピソードから、紫式部と違い平凡さが目立ちますが、それでは藤原惟規について理解したことになりません。

実際のところ、藤原惟規は若くして大学寮で紀伝道を専攻した学生である文章生となり、出世することになります。

父藤原為時と同じく紀伝道を専攻しているため、これは親子の共通点とも言えるでしょう。

そして1004年には少内記を務め、後に兵部丞と六位蔵人を任じています。

さらには従五位下の官位を授かり、上流貴族の仲間入りするくらい優秀な人材として評価されました。

ここまでくると、紫式部と比較され、平凡な兄(文献によっては弟)と評価されていたのが嘘のように思えてきます。

そんな中、越後守に任命された藤原為時に付き従い、越後へ赴任することになります。

せっかく大出世し、地位まで手に入れたのに自分から手放してしまうのです。

もしかすると、地位よりも家族のことを第一に考え、高齢な父を心配し、共に赴任したのかもしれません。

そう考えると、家族思いの優しい人物だったと言えるでしょう。

しかし、越後で藤原惟規は病に伏してしまいます。

藤原惟規を看取ったのは藤原為時で、息子に先立たれてしまうことになりました。

何より紫式部よりも早く亡くなったため、短命であったことが分かっています。

藤原惟規のエピソード

幼少期の漢文の講義で覚えが悪く、藤原為時から劣っていることを言われてしまった藤原惟規ですが、それ以外にも彼のことが分かるエピソードがあります。

そのエピソードとは、『紫式部日記』にある大晦日に起こった強盗事件です。

警備の者も帰ってしまった大晦日の夜、天皇の后で紫式部が仕えている彰子様の部屋から悲鳴が聞こえました。

彰子様の身を案じ、内匠と弁の内侍、紫式部の3人で部屋に向かいます。

すると、2人の女房が強盗に身ぐるみを剥がされ、裸でうずくまっている状態を目の当たりにし、「兵部の丞」を呼ぶように指示を出したのです。

ここで登場する「兵部の丞」が、藤原惟規になるそうです。

しかしながら、話を読み進めるとこの兵部の丞はすでに帰っており、紫式部たちの助けにはなりませんでした。

その結果、一大事なのに肝心な時に役に立たないと、紫式部に思われたのです。

藤原惟規からすると、自分の仕事が終わったため、いつも通り帰宅したのでしょう。

つまり、不在であったとしてもタイミングが悪かったのです。

ですが、紫式部の視点から見るとどうでしょう。

実は、出世の絶好のタイミングを逃してしまったと考えることができるのです。

強盗事件の時、紫式部や彰子様のいる部屋には、基本的に女性しかいません。

警備の者も帰宅していて不在となると、頼れる男性は藤原惟規しかいないのですから、手柄を立てる絶好のチャンスでもありました。

平安時代の貴族において、身分は大きな基準になります。

誰もが出世のチャンスを狙っているため、トラブルであっても利用しない手はありません。

しかし、主役になるだろう藤原惟規の不在で、一族の出世チャンスを逃してしまったのです。

紫式部は非常に残念がると思いますが、藤原惟規に非はないので仕方がありません。

このように抜けているような印象がある藤原惟規は、歌人としてとても有名でした。

それが分かるエピソードとして、藤原惟規が危篤となった際、和歌を記してこと切れたというものがあります。

その時、最後の文字を書き終わる前に亡くなってしまいます。

それを見た藤原為時は息子が亡くなった後、代わりに最後の1文字を書いたそうです。

幼少期は紫式部と比較してしまった藤原為時も、最期の時は立派な息子として誇らしく思っていたことでしょう。

また、『今昔物語集』の中には村上天皇の皇女、斎院をアクシデントから助けたエピソードがあります。

天智天皇の詠んだ歌を踏まえた和歌を詠み、アクシデントを自分の称賛へと活かすことができたのです。

急な状況とはいえ、アレンジを加え教養のある歌を詠むことは、和歌に精通し才能のある人しかできません。

若く出世ができたのも、きちんと才能が評価されてのことですから、歌人としての評価も間違いないです。

今回ご紹介したエピソードを踏まえるとどうでしょう。

もしかすると、藤原為時や紫式部、才能に溢れた家族の中にいたために、藤原惟規の良さが埋もれてしまったのかもしれません。

まとめ

ここでは、藤原惟規の生涯とエピソードをお話ししました。

紫式部と比較されたことで有名な藤原惟規ですが、歌人としての才能があり、出世した人物でもあります。

少し抜けたところもありますが、出世の道を自ら断り父の藤原為時の赴任先に同行するくらい、家族思いの一面もあります。

最期は病に倒れ、藤原為時、紫式部よりも早く亡くなってしまいますが、決して才能がない人物でなかったことが分かっていただけたでしょう。

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