大事業を成し遂げた「伊能忠敬」

歴史

伊能忠敬と聞くと、精巧な日本地図を作り上げたことで有名です。
しかしながら、全国行脚したのは50代の時で、若い頃から地図を作る仕事や研究をしていたわけではありませんでした。
何がきっかけで、地図を作ろうとしたのでしょうか?
今回は、伊能忠敬の生涯とエピソードをご紹介します。

伊能忠敬の生涯

伊能忠敬は、上総国山辺郡小関村の名主であった小関五郎左衛門家に生まれます。
名主の家だったため将来が約束されているかと思いきや、父は婿養子だったため、家を継ぐことはできませんでした。
家を出されてからは、知り合いや親戚の家を転々としていましたが、酒屋の伊能家に婿入りすることになります。

婿入りのきっかけは、土地改良工事の現場監督として使った際に有能ぶりを発揮したことにあります。
その他、幼少期に習った算盤が優れていたことから、事業規模を縮小していた伊能家の再興も期待されていました。
実際に伊能家の再興は予想以上に成功し、家業で大成功を収めます。

さらに、名主として様々な村のピンチも解決しており、多くの人から信頼されていたのです。
そんな伊能忠敬の転機は、50歳の時に訪れます。
家督を長男に譲った後、自分より19歳年下の高橋至時の弟子となり、ここから天文学の勉強を始めるのです。

そして55歳の時に蝦夷地の測量を行い、そこから正確な地図を作るため各地に出発します。
一説によると、伊能忠敬はこの時から日本全国の測量を念頭に置いていたのでないかと考えられています。
少人数の調査で、伊能忠敬が病気になることもありながら、第十次測量の江戸府内の測量まで進めます。

最後の測量時点で、伊能忠敬は71歳でした。
高齢であったため、伊能忠敬は指揮を執る形で作業に関わっていき、八丁堀の屋敷で最終作業を行いました。
ですが、1818年になると急に体が衰えてしまい、最期は弟子たちに見守られながら生涯を終えました。
伊能忠敬が亡くなった時点ではまだ地図が完成していなかったため、地図の完成後に喪が発せられ、人々は亡くなったことを知ることになります。

伊能忠敬のエピソード

そもそも伊能忠敬が全国を測量しようと思ったきっかけは、自分で行った測量結果にあります。
当時の天文学者の間では、地球の大きさがどのくらいなのかが問題となり、議論されていました。
伊能忠敬もこの問題に興味を持ち、自分で測量できないかと実行したのですが、上手くいきませんでした。

なぜなら、自宅周辺の測量を行った際、誤差が大きく、正確な結果が得られなかったからです。
その結果に対し伊能忠敬は、自宅周辺くらいの距離でなく、もっと長距離での測定が必要だと考えたのです。
伊能忠敬の好奇心が、日本地図の作成に繋がったと言っても過言ではありません。

さらに、伊能忠敬の好奇心は、江戸幕府も動かしました。
前述の通り、当初の測量目的地は蝦夷地でしたが、これは幕府から命令されて行ったわけではありません。
なんと、伊能忠敬からの申し出により、実現しているのです。

伊能忠敬は、地球の直径を計測するための距離がどのくらい必要かを高橋至時に相談した際、「江戸と蝦夷地くらいあればいいのでないか」と言われたそうです。
しかし、蝦夷地に行くには江戸幕府の許可が必要だったため、「日本の役に立つため日本地図を作りたい」ということを申し出たのです。
当時の天文学者の間でも、ここまで行動した人物は中々いなかったでしょう。

そして当時、蝦夷地ではロシアの特使アダム・ラクスマンが根室に入港するなど、ロシアの脅威に晒されていたため、江戸幕府は国防のために正確な地図を欲していました。
つまり、伊能忠敬と江戸幕府の利害が一致したため、申し出が受理され測量の旅に出ることができたのです。
今回の測量で念願の地球の大きさを知ることができると、嬉しく思っていたことでしょう。

そして伊能忠敬が計算している頃、提出された東日本の地図を見た江戸幕府は驚いてしまいます。
あまりにも正確な地図だったため、江戸幕府は西日本の地図も作成してほしいと命令したのです。
この時点で伊能忠敬は60歳近くなっていましたから、東日本以上の長旅になることが必須で、少し困ったかもしれません。
それでも江戸幕府の命令に従い、西日本の測量を行いました。

歴史の教科書で知られている伊能忠敬の日本地図の作成は、彼の人生の後半部分の出来事です。
しかし、年を重ねても興味・関心のあることを学び、行動に移したところには、現代人も学ぶべきことが多くあります。
そして長年の測量の結果、自分が追い求めていた問題の答えを導いたため、苦労は多かったですが満足のいく旅だったでしょう。

当時の伊能忠敬は、もしかすると自分が測量し作成した地図が大きな価値があることを知らなかったかもしれません。

まとめ

今回は、伊能忠敬の生涯とエピソードをご紹介しました。
元々、伊能家に婿入りした後、家業を立て直したり、名主として村のピンチを解決したりと、地図作成とは無縁の人生を送ります。
しかし、隠居後は年下の高橋至時に弟子入りし、勉強をしながら地球の大きさの解明に熱心に打ち込みました。
日本地図の完成形を見ることは叶いませんでしたが、伊能忠敬は自分の好奇心から大事業を成し遂げたのです。

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