高山右近は、戦国という乱世において武功や領地よりも自らの「信仰」を第一に生き抜いた稀代のキリシタン大名です。
織田信長や豊臣秀吉に高く評価されながらも、キリスト教への弾圧が強まる中で地位や名誉を潔く投げ打って最後は異国の地で没したのでした。
高山右近の清廉不敵な生涯を、紹介していきます。
台頭とキリシタンへの覚醒
高山右近は天文21(1552)年、摂津国(現在の大阪府・兵庫県)の国人領主の子として生まれた武将です。 12歳の時に父の影響で洗礼を受け、「ジュスト(正義の人)」という洗礼名を与えられたことが運命を決定づけました。
右近は単なる宗教家ではなく武将としても超一流であり、織田信長に仕えて頭角を現すと摂津高槻城主となって領内のキリスト教布教に尽力したのです。
右近の誠実な人柄と熱心な信仰心は多くの人を惹きつけて、家臣や領民の多くが改宗しました。
さらに、茶人としても千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられるなど、高い教養を持つ文化人でもあったのです。
信長が本能寺の変で倒れた後は豊臣秀吉に仕え、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで抜群の武功を挙げます。
秀吉からも厚い信頼を勝ち取り、播磨国明石へ加増移封され、大名としての全盛期を迎えたのです。
信仰のための棄国
しかし栄華の時は突然の終わりを迎えることとなり、天正15(1587)年の九州平定を終えた秀吉が突如として「伴天連(バテレン)追放令」を発令しました。 秀吉は右近の才能を惜しみ「信仰を捨てれば領地を安堵する」と迫ったのですが、並の武将ならお家存続のために改宗を選んでいたでしょう。
しかし、右近は「神への信仰こそが第一」として決して揺らぐことなく、大名の地位も豊かな領地もすべてを潔く返上しました。
その後、小西行長や前田利家らの庇護を受けながら潜伏生活を続けましたが、慶長19(1614)年に徳川家康によるキリシタン禁教令によって日本を追放されたのです。
右近は家族と共にマニラ(フィリピン)へと渡り、現地ではキリスト教の英雄として大歓迎を受けました。
しかし、長旅の疲れと慣れない異国の気候が老いた体を蝕み、マニラ到着からわずか40日後に63歳でその激動の生涯を閉じることとなったのです。
まとめ
高山右近の生涯は権力に屈せず自らのアイデンティティを貫き通した「至高の美学」に満ちていて、戦国大名でありながら現世の富や権力よりも魂の救済と信仰の自由を選びました。 彼の生き様は当時のヨーロッパにも広く知れ渡り、現代でも国内外で高く評価されて2016年にはカトリック教会から「福者」に認定されることになったのです。 右近が遺した清廉な足跡は、今もなお多くの人々の心を揺さぶり続けています。


