第2代将軍徳川秀忠の母「於愛の方」

歴史

天下を手に入れた徳川家康には、側室が複数人いました。

その中に、のちの将軍になる徳川秀忠の母である於愛の方(西郷の局)がいます。

側室は跡継ぎをもうける意味でも大切にされてきましたが、徳川家康は於愛の方を特に大切にしていたと言われています。

そんな於愛の方の生涯とエピソードを、今回はご紹介します。

於愛の方の生涯

父は遠江国の戸塚忠春、母三河西郷氏から、於愛の方が生まれました。

ここで、母方の三河西郷氏と当時三河国を支配していた今川氏との関係を見てみましょう。

於愛の方の外祖父であった西郷正勝の時代は、今川義元の支配が強く、何とか家自体が存続している状況でした。

そのため、於愛の方の母が戸塚忠春に嫁いだのも、今川氏からの命令によるものなのでないかと考えられています。

成長すると、もちろん於愛の方にも結婚の話がやってきます。

そして最初の結婚をするのですが、夫に先立たれてしまいます。

その時、従兄の西郷義勝も正室が先立ってしまったことから、於愛の方に継室の話がやってきました。

西郷義勝の継室になると1男1女をもうけますが、1571年に西郷義勝が竹広合戦で落命してしまいます。

於愛の方は、またしても夫を失ってしまうのです。

また、西郷義勝との間に生まれた男子は、まだ幼く家督を継げる状態でなかったため、家の存続が危うくなります。

西郷義勝の主君であった徳川家康に男子への相続を求めたものの拒否されてしまい、叔父の西郷清員の子が家督を継ぐことになりました。

西郷清員との関わりは、ここで終わりません。

後に徳川家康は姪の於愛の方を側室として望んだため、西郷清員は自分の養女としてから差し出します。

於愛の方は、この時27歳だったと言われています。

徳川家康の側室になってからは、徳川秀忠、尾張清洲藩主になった松平忠吉を産みました。

徳川秀忠を産んだ際に正式な側室として認められ、「西郷の局」と呼ばれるようになります。

子どもに恵まれ生活していた於愛の方ですが、1589年に38歳の若さで生涯を閉じることになります。

亡くなる3年前、徳川家康は駿府城に移るものの、まだまだ天下を取るために油断できない状況が続いていました。

緊張した状況は、徳川家康だけでなく、於愛の方にも影響を及ぼします。

於愛の方が心労で倒れてしまったというエピソードも残っているため、若くして亡くなってしまった背景に徳川家康を取り巻く環境が関わっていたのかもしれません。

於愛の方のエピソード

於愛の方には、徳川家康だけでなく、家臣や周囲の侍女たちからも好かれていたというエピソードが残っています。

周囲の人々が魅了されたのは、容姿に限らず、温和な人柄であったことが関係しています。
多くの側室がいると、少なからず性格の好き嫌いが発生してしまいます。

周囲から見られたり、批判されたりすることの多い立場ですが、元来の誠実さも合わさって、評判が良かったのです。

徳川家康が大切にしていたのも、単に男子が生まれたからでなく、人柄もあってのことだったことが分かります。

また、於愛の方は強度の近眼持ちだったため、生活上困難なことが少なからずありました。

その影響から特に盲目の女性に対しては、目が見えないことに同情し、衣食住を施し生活を保障していたため、そのような人たちからとても慕われていたそうです。

これは、似たような境遇を持っているからこその行動だと言えます。

於愛の方が亡くなった後、生前の行為に対して盲目の女性たちが寺院に集まり、連日彼女のために祈りを捧げたというエピソードも残っています。

幕府関係の人たちに限らず、一般の人からも好意を持たれていたことが分かるため、認知度も高かったことでしょう。

徳川家康の側室になるまで、夫と死別する結末を経験した於愛の方は、多くの人に愛されたと言えます。

とはいえ、大勢の人から好かれている人物であっても、好ましくないと感じる人も当然います。

実際、於愛の方の死因には謎が残っています。

上述した通り、心労によるものと考える説もあれば、徳川家康の正室である築山殿の侍女による毒殺や暗殺でないかと考える説もあるのです。

仮に侍女によるものと考えるなら、穏やかな話ではありません。

しかしながら、当時の徳川家康の正室や側室の様子を調べてみると、世継ぎの問題から様々なトラブルが起こっていたことも事実です。

世継ぎとなる男子が生まれない、そもそも側室が妊娠することを認めないなど、以前から女性同士の争いが多発していました。

穏やかな人物であった於愛の方も、女性同士の争いに巻き込まれていた可能性も否定できません。

於愛の方は外見、性格共に優れている一方で、数々の行為から徳川家康に排除されてしまった築山殿。

両者を比較した時、侍女が嫉妬心を抱いたり、恨んでしまったりするのも無理ありません。

違った見方をすると、恨みを買うくらい魅力的だったとも言えるのでないでしょうか。

まとめ

今回は、於愛の方の生涯とエピソードをご紹介しました。

夫に先立たれた過去がある於愛の方ですが、徳川家康に望まれ、側室になります。

温和な人柄と誠実さから、徳川家康だけでなく周囲の者まで魅了し、好かれていた人物です。

さらに盲目の女性たちの生活をサポートもしていたため、死後も祈りを捧げられたことにも納得できます。

若くして亡くなってしまったのは、残念でなりません。

タイトルとURLをコピーしました