波乱万丈な人生を送った「松平広忠」

歴史

徳川家康の父、松平広忠は若くして亡くなってしまいますが、三河国を守るために尽力した人物でもあります。

その人生は、壮絶で平凡な道のりではありませんでした。

亡くなるまでの間、どのような形で国を守ろうとしたのでしょうか?

今回は、松平広忠の生涯とエピソードをご紹介します。

松平広忠の生涯

松平広忠は1526年、松平宗家の松平清康と青木貞景の娘の間に、長男として生まれます。

幼名は諸書によって異なりますが、徳川家康の幼名と同じ竹千代と名乗っていた説もあります。

松平宗家に誕生した松平広忠ですが、父と過ごす時間は長くありませんでした。

松平広忠が10歳の時、森山崩れの中で家臣に斬り殺されてしまったのです。

これが、1535年の時でした。

父の死後、岡崎城を守り抜きますが、ここから波乱の人生の幕開となります。

なんと松平一族によって岡崎城から追い出されてしまい、家臣と共に逃亡生活を送ることになるのです。

自分の一族から城を追い出されてしまうことで、大きなショックを受けたことでしょう。

後に松平広忠は松平信定と和睦を結び、無事に岡崎城に戻ってくることができました。

1539年、松平広忠は12歳の時に元服しますが、また周辺の状況が変化したため、再度逃亡してしまいます。

この時、松平広忠は今川義元を頼るようになり、子の代にまでわたる今川氏との関係が始まることになりました。

1540年に今川義元の計らいで三河国の牟呂城に移り、その後は松平信孝と松平康孝の協力を得て岡崎城の占領に成功します。

ここから、織田氏と幾度かぶつかり合うことになりました。

1547年頃に織田氏が三河侵攻をした際には、今川氏に加勢を乞うものの思うようにいかず、条件を出されてしまうことになります。

これが、幼い徳川家康が今川氏の人質になることでした。

戦況を打開するためには、加勢の見返りとして息子を送るしかありません。

その後1548年、1549年に織田氏と対陣し、勝利を治めますが、松平広忠は24歳の若さで生涯を閉じてしまいます。

何度も逃亡生活を送った松平広忠の最期は、今でも謎に包まれています。

松平広忠のエピソード

松平広忠の死因には諸説ありますが、病死でないと考えている説もあります。

そのうちの一つが、岡崎城で近臣の岩松八弥に殺害された説です。

なぜ近臣が主君を殺したのか、明確な理由があります。

それは、岩松八弥が織田氏の送った刺客だったというものです。

確かに松平広忠の亡くなった1549年は、今川氏との関係を重視し、織田氏と対立していた時期にあたります。

自分の味方にならないならば、討ち取ってしまおうとしたのでしょう。

暗殺の機会を窺うため、側近にまでなっていたのです。

戦中に限らず、敵との戦いに勝利する、有利に進めるために刺客を送り込むことは珍しくありません。

それに気づけず亡くなってしまったのは、戦略的に負けていたと言えるでしょう。

しかし、前述の通り不慮の死を遂げた事情は複数あり、今回ご紹介した内容以外にも、一揆によって殺害されたなどがあります。

どの説であっても、無念な形で終わったことに変わりありません。

そして、24歳という年齢にも、次のようなエピソードがあります。

松平広忠が亡くなった年齢は、なんと父松平清康が亡くなった年齢と同じくらいだったのです。

加えて、松平清康も家臣に殺害されて亡くなっています。

親子共に20代前半で家臣に裏切られ亡くなってしまったという、悲しい共通点がありました。

しかし、徳川家康が家臣に恵まれその流れを変えることになったのは、多くの人が知るところです。

また、親が早世したことで松平広忠と徳川家康は、家が窮地に陥った状態で生きなければなりませんでした。

今川氏や織田氏との関係の中で、家の存続を模索しなればならず、苦労したとも言えます。

松平広忠は今川氏につきましたが、それは家の存続のために必要な決断でした。

幼い徳川家康を人質に出したことも、当時の情勢なら一般的な方法であっても、親心からすると苦渋の決断をしたのかもしれません。

以上のように松平広忠、松平清康は常に強者から狙われていたため、辛うじて家が存続できていたことが分かります。

その状況が、幼少期の徳川家康にも降りかかってきたため、苦労の多い一族だったことでしょう。

祖父や父は報われることなく早世してしまいましたが、徳川家康は粘り強く情勢の変化を待ちました。

仮に松平広忠が少しでも長生きしていたとしたら、徳川家康は織田信長と同盟を結ぶことはあったでしょうか。

織田氏と敵対する選択をした松平広忠は、仮初の関係であっても近づくことを決して許しはしないでしょう。

一時的な関係であったとしても織田氏と繋がりを持てたことは、徳川家康に有利に働いたはずです。

徳川家康の人生を良くも悪くも左右した人物であることに、間違いはありません。

まとめ

今回は、松平広忠の生涯とエピソードについてご紹介しました。

幼い頃に父が亡くなり、幾度か逃亡生活を繰り返した松平広忠は、今川氏と関係を持つことになります。

しかし、織田氏から送られた刺客により殺されてしまい、父と同じく早世してしまいます。

今川氏と織田氏、どちらに付くのか選択が違っていたなら、長生きしていたなら、徳川家康の人生も大きく変わったはずです。

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