藤原道長は、平安時代中期の公家です。
平安時代で最も権力を持っていたと言われる人物で、源氏物語の大ファンであり紫式部と恋人だったとも言われています。
その生涯は、一体どのようなものだったのでしょうか?
特徴的なエピソードなどと一緒に、紹介します。
藤原道長の生涯
藤原道長は966年、藤原北家、摂政、関白、太政大臣の藤原兼家の5男として生まれました。
道隆、道兼といった有力な兄がいる5男なので、それほど目立っていませんでした。
それでも一条天皇が即位した際に兼家が摂政に任じられた際、息子を急速に昇進させたため道長も987年に従三位に叙し、左京大夫を兼ねます。
そして翌年には参議を経ず権中納言となったのですが、それ以前に源雅信の娘の倫子と結婚していて、この年に長女の彰子が生まれています。
その後、安和の変で失脚した左大臣源高明の娘の明子も妻としています。
父の死後に摂関となった道隆は大酒がたたり糖尿病になり、道兼は伝染病に罹患して相次いで病没します。
道長は、道隆の嫡男である伊周との清掃に勝利して藤原氏長と左近衛大将も兼任し、やがては左大臣となって政権を掌握しました。
998年に道長は大病を患ってしまい、その病状が深刻だったため天皇に出家を申し出たのですが、天皇によって再三慰留されるうちに平癒し、政務に復帰しました。
そして、その翌年に娘の彰子を女御として一条天皇の元へと入内させます。
入内は盛大に行われ、公卿たちの和歌を募って能書家の藤原行成が筆を入れた四尺の屛風歌など豪華な調度品も用意されていて、花山法皇も和歌を送りました。
しかし、中納言で一流の学識者の藤原実資だけは、歌を献じることを拒否しました。
1000年に、道長は彰子を皇后にしました。
号は中宮で、先達の后である定子が一度出家していたため中宮色を行えないことから、前例のない一帝二后が成立しました。
道長は主席の大臣として、除目の際に儀式を執り行い人事を決定したらそれを大間書に記載する、執筆の仕事があります。
しかし、道長は998年の秋から病後を理由に自責の藤原顕光を譲り、その後もたびたび除目への出席を辞退していました。
一条天皇は、除目への奉仕を道長に厳命し、どうしても無理なら除目の日程を変更することを命じます。
彰子が皇子を出産してからは、道長も除目の執筆を滞りなく行うようになりました。
1011年に一条天皇が崩御すると、三条天皇が即位します。
三条天皇は道長に関白就任を要請するのですが、道長は断って内覧に留任しました。
2人は叔父と甥だったのですが、早くに母后を失って成人してから即位したため、連帯意識は薄かったのです。
天皇は親政を望んでいたのですが、道長の次女が禎子内親王を生み天皇と道長の関係は悪化しています。
その確執から政務が滞ってしまい、道長に有利な状況でした。
そして天皇は1014年に眼病を患い、道長はそれを理由にしばしば譲位を迫ります。
その圧力に対して、道長に准摂政を宣下して除目を委任し、自らは与らぬと詔します。
しかし、内裏の炎上もあってさらに上位を迫られた三条天皇は、1016年に後一条天皇が即位し、道長は摂政の宣下を受けます。
1017年に摂政と藤原氏長者を嫡男の頼道に譲った道長は、三条上皇が崩御した際に敦明親王を准太上天皇として、娘の寛子を嫁させて優遇しました。
その後、1019年に病のため剃髪して出家し、東大寺で受戒されました。
晩年は法成寺の建立に心血を注ぎ、1028年に享年62で病没しました。
藤原道長のエピソード
藤原道長といえば、源氏物語の大ファンでありその作者の紫式部を庇護していたということで有名です。
2人は恋人同士とも言われていますが、実際にはどうだったのでしょうか?
道長は文学を愛好していたため、紫式部だけではなく和泉式部などの女流文学者を広く庇護していて、内裏の作文会に出席したり、自邸で作文会や歌合を催したりもしていました。
源氏物語は常に楽しみにしていて、紫式部の局を訪れては現行の催促をしていた第一読者だったと言われています。
登場人物に自分をモデルにしたと思われる貴族がいたため、それを楽しみにしていたともいわれています。
また、源氏物語の主人公は様々な人物が考えられているのですが、その1人が藤原道長です。
紫式部は道長の娘の彰子の家庭教師役だったため、特別に庇護されていたとも考えられています。
晩年はかなり健康を害していて、50歳を過ぎてからは急激にやせ細ってしまい、また水分の摂取量も増えていたことから、糖尿病だったと考えられています。
視力も年々衰えていたのは糖尿病の合併症と考えられ、心臓神経病の持病もありました。
まとめ
藤原道長は平安時代に栄えた藤原家に5男として生まれたにも関わらず、藤原氏長者となり摂政、関白、太政大臣などを勤めた人物です。
また、三条天皇と反目していたにも関わらず重職についていたことから、天皇も無視できないほどの権力を持っていたことがわかります。
紫式部とは作品のファンと庇護という関係がみられますが、それ以上の関係性もうかがうことができます。