海道一の弓取り「今川義元」

歴史

今川義元について、桶狭間の戦いで織田信長に敗れた戦国武将というイメージを持っている方は多いでしょう。

織田信長と比べられがちですが、実は優秀な戦国武将の1人でもあります。

特に領地経営の手腕は、現在でも評価されています。

今回は、今川義元の生涯とエピソードについてご紹介します。

今川義元の生涯

今川義元は、1519年、今川氏親の息子として誕生しました。

幼名は「芳菊丸」でしたが、跡継ぎの兄がすでにいたことで後継者争いから早い段階で外され、駿河国の善得寺に預けられます。

それは、今川義元が4歳の時でした。

しかし、今川義元の兄である今川氏輝が24歳の若さで急逝すると、今川家の状況が変わります。

後継者問題が発生したのです。

今川氏輝は自分が亡くなった時のことを考え、事前に後継者を立てていたのですが、その後継者も同じ日に一緒に亡くなってしまいます。

そこで今川家は、当時寺で僧として過ごしていた栴岳承芳(今川義元の僧名)を還俗させ、当主にしようと考えましたが、家臣がそれに反対します。

遠江で軍事と外交を担っていた家臣の福島氏は、今川義元と同じように僧として過ごしている他の兄弟、玄広恵探を当主にしようと考えたのです。

これがきっかけで起こった乱が、1536年の「花倉の乱」。

花倉城を中心に福島氏が抵抗していましたが、長期戦になることを恐れた今川義元が相模の北条氏に協力を要請したことで流れは変わります。

玄広恵探側の攻めると当人は逃亡し、自刃してしまったため、花倉の乱は約2週間で終了する結果となりました。

花倉の乱を経て、無事今川義元が今川家当主に決定しました。

翌年の1537年、今川義元は武田信玄と同盟を結びますが、花倉の乱で同盟を結んでいた北条氏の反感を買います。

北条氏の侵攻を受けてしまった今川義元は兵を出すものの、挟み撃ちにされてしまい、撃退できず河東を占領されてしまう窮地に陥ります。

しかし、1545年に和睦に成功し、無事に河東を取り戻しました。

1554年に武田信玄、北条氏康、今川義元の3人で「甲相駿三国同盟」を結びます。

そして、1560年に起こった桶狭間の戦いで織田信長の家臣の毛利良勝に討たれ、42歳の若さで生涯を終えました。

今川義元のエピソード

今川義元は「海道一の弓取り」、分かりやすくいうと東海道一の武将として名を馳せています。

このように言われる理由は、領国の統治と外交で自身の能力を発揮していたところにあります。

ここで、領国統治の代表例を2つご紹介しましょう。

まずは、領国を豊かにする方法の1つとして、金山開発に目を付けたことです。

当時の経済的に豊かな国を示す指標は、土地の生産性を石の単位で表す「石高」を用いていました。

石高の指標だけ見ると、駿河国は決して豊かな国ではありませんでした。

しかし複数の金山があることに注目し、開発を進めた結果、金の生産量を増加させることに成功するのです。

この頃、灰吹法と呼ばれる鉱石から金銀を抽出する方法が日本に伝来していたため、それを取り入れることで生産量の増加を実現できました。

金山があったとしても、金の抽出が多くできなければ利益に繋げられません。

抽出法が伝来したタイミングが良かったとも言えますが、そもそもの資源に注目していなければ、これは得られなかった成果です。

違った視点から領国を豊かにしようとした着眼点は当時珍しく、石高以外で豊かになる道を開いたといっても過言ではありません。

次に、検地を一足早く実施していたことも、今川義元を治世者として評価できるポイントになります。

歴史の学習だと、検地は豊臣秀吉の時代に登場します。

ですが、石高に応じた税の徴収は、すでに今川義元が始めていたのです。

さらに商業関連では物流の整備を行い、商人の統制を強化するなど、税収をしっかりと確保できる基盤を整えていきました。

その結果、税収も増加し、領国の経営を安定的なものにしていったのです。

これらの経済政策は、他の戦国武将と同じことをしていてはできません。

優秀だったからこそ、気が付けたと言えるでしょう。

桶狭間の戦いで織田信長に負けた戦国武将とだけ聞くと、弱いイメージがありますが、実のところはそうではありません。

戦、政治の面において非常に優れているため、知れば知るほどどうして桶狭間の戦いで敗れてしまったのかと不思議になるくらいなのです。

最後に、あったかもしれない歴史についてお話ししましょう。

桶狭間の戦いの後、織田信長は天下統一に向けて本格的に動き始めました。

しかし、戦の結果が違っていたならばどうでしょう。

もしかすると今川義元も、天下統一に向けて行動する資格があったかもしれません。

その根拠は、ここで述べてきた通りです。

海道一の弓取りとして呼ばれていた今川義元が勝利していたならば、違った歴史が残ったことでしょう。

まとめ

今回は、今川義元の生涯とエピソードについてご紹介しました。

当初、後継者問題から外れていた今川義元は、家の状況の変化から後継者として扱われ、当主にまでなります。

桶狭間の戦いで討ち取られたものの、東海道一の武将の名に恥じない領国統治を行っていました。

金山開発や先駆けた経済政策は大きな影響を及ぼしたため、桶狭間の戦いの結果が違っていれば、今川義元が天下統一に向けて動いていたかもしれません。

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