北条時政は、鎌倉幕府の成立時期に活躍した武将で、鎌倉幕府の初代執権を勤めました。
源頼朝の御台所であった北条政子や、鎌倉幕府の屋台骨となった北条義時の父でもあります。
北条時政は、どのような人物だったのでしょうか?
その生涯や、エピソードなどを紹介します。
北条時政の生涯
北条時政は、1138年に誕生しました。
元々は桓武平氏高望流の平直方の子孫と称していた在地豪族に生まれており、父は北条時兼か時定のどちらかで、祖父は北条時家です。
その生涯のうち、前半に何があったのかは明らかではありません。
ほぼ一代で最高権力者となったのにも関わらず、時定以外には兄弟や従兄弟などが歴史に登場しません。
時政が目立つようになるのは、平治の乱の後からです。
平治の乱で源義朝が敗死し、その嫡男の頼朝が伊豆国に配流された際に監視役となったのです。
時政の妻は牧の方といい、実家が平頼盛の家人として駿河国大岡牧を知行していました。
監視役となっている内に、頼朝と時政の娘の政子が恋仲となり、当初は反対していたものの結局は婚姻を認め、頼朝の後援者となりました。
頼朝が平氏方と争い、鎌倉政権下で他の有力御家人の比重が高まると、時政は目立たなくなっていきます。
しかし、1185年に源義経が頼朝に謀反を起こした際は、頼朝の命を受けて入京し、後白河院と交渉する役を務めています。
その後、京都守護といわれ京都の治安維持や平氏残党の捜索、義経の問題処理、朝廷との政治折衝など多くの役割を担います。
群盗を検非違使庁に渡すことなく処刑するなど強権的な面も見られたものの、施策はおおむね好評でした。
1199年に頼朝が死去した際は、十三人の合議制が始まりました。
時政もその1人として名を連ね、幕府の有力者として姿を現します。
また、これには次男の義時も名を連ねていて、それまでは反目していたのですが同じ方向を向いて政治に取り組むこととなりました。
頼朝の後は嫡男の頼家が継いだものの、それまで抑えられていた有力御家人の不満が噴出して統制に辣腕をふるっていた侍所別当の梶原景時が失脚して鎌倉から追放されます。
追放のきっかけとなったのは時政の娘の阿波局だったため、時政も関わっていたと思われます。
時政は1200年に、源氏一門以外では御家人として初めて遠江守としての国司に任じられます。
幕府内の地位は大きく向上したものの、将軍家外積の地位は頼家の州都である比企能員に移り、対立が激しくなります。
1203年に頼家が病に倒れた際に比企能員を呼び出し、謀殺します。
その後は頼家の嫡子である一幡の邸に軍勢を差し向け、比企氏を滅ぼします。
さらに、頼朝を伊豆国に追放して将軍位から廃します。
そして頼家の弟である12歳の実朝を3代将軍にして、実権を握ります。
そして、実朝に代わって時政が単独で署名する「関東下知状」を発給して、御家人たちの所領安堵以下の政務を行いました。
そして大江広元と並んで政所別当に就任し、幕府における専制を確立します。
同年、時政が初代執権についたとされているのは、こういった政治的状況を示したものです。
その後、妻と共謀して平賀朝雅を新将軍に擁立するため、実朝を殺害しようとします。
しかし、政子・義時らが時政邸にいた実朝を義時邸へと迎え、時政に味方していた御家人の大半も義時側に味方しました。
陰謀に失敗した時政は幕府内でも完全に孤立無援となり、出家して鎌倉から追放され、伊豆国の北条へ隠居させられることとなりました。
1215年に、腫物のため享年78で死去しました。
北条時政のエピソード
時政には、縁のある名刀がありました。
鬼丸国綱という刀で、織田信長も所有したと言われ天下五剣の一振りに数えられています。
鎌倉時代に活躍した、粟田口国綱という名工の作です。
北条時政が悪夢に取り憑かれ、夜な夜な夢に小鬼が現れて枕もとを歩き回って体調を崩していた時、祓ってもらっても効果がなく日ごと憔悴していきました。
そんなある日、夢の中に翁が現れます。
翁は、自分が鬼丸国綱の化身であり、小鬼を退治してやりたいが刀身が錆びているため鞘から抜けない、といいます。
そのため、目覚めてから国綱の錆びを落として清め、抜身のままで寝床の近くに建て抱えておきました。
その夜、火鉢のそばで寝ていると大きな衝撃音で目を覚まします。
太刀が倒れ、火鉢の足にある鬼をかたどった彫金の首の部分を断ち切っていました。
これが小鬼の招待であり、それ以降は夢に小鬼が出てくることはなくなりました。
鬼丸国綱は、現在御物として宮内庁が管理しています。
まとめ
北条時政は、配流となった源頼朝に娘を嫁がせた先見の明がある人物で、鎌倉幕府の成立に深く関わっていました。
次男の義時とは反目したり協調したりと立場が変わり、最終的には義時に立場を奪われてしまいます。
それでも、幕府の初代執権として政治を支える立場にあったことは間違いありません。
時政なくては、鎌倉幕府も成り立たなかったでしょう。