現存天守12城の1つに数えられる松山城は、愛媛県松山市の中心部にあります。
松山城という名前の城は各地にあるため、伊予松山城と呼ばれることもあります。
四国を代表する城である松山城は、どのような歴史を歩んできたのでしょうか?
徳懲役なエピソードとともに、紹介します。
松山城の歴史
松山城は、1602年に築城されました。
伊予国正木城の城主であった加藤嘉明が関ケ原の戦いで武功を上げ、10万石から20万石に加増された際に、麓に平山城を築城したのが、松山城です。
しかし、嘉明は1627年、松山城の完成を待たずに会津藩へと転封になり、松山藩は蒲生忠知が藩主となりました。
しかし、1634年に忠知は参勤交代の途中で死去してしまったため、蒲生家は断絶してしまいます。
その代わりに、大須藩主の加藤泰興が城番となります。
そして、1635年になると松平定行が藩主として松山城を居城にします。
1784年には落雷によって天守を含めた主な建物が焼失したものの、1854年に再建されました。
明治になると、土佐藩が松山城を受領し保護します。
廃藩置県により松山藩が松山県になる前後には、失火によって三之丸、二之丸が焼失してしまいます。
そして、1873年の廃城令による処分で大蔵省、内務省所轄となり、麓の城門や櫓、御殿などは城外に払い下げられます。
建物の解体は行われたものの、入札はありませんでした。
また、1873年は愛媛県が成立した年でもあります。
1923年になると、松山城の本丸は旧藩主家である久松家に払下げられますが、そのまま松山市に寄贈されてそれ以降は松山市の所有になっています。
しかし、1933年に松山城放火事件が起こり、大天守を除いた本壇の現存建築が焼失します。
天守など35棟の建造物は1935年に当時の国宝保存法によって国宝に指定されましたが、松山空襲で天神櫓など11棟が焼失しています。
1949年にも、筒井門とその東続櫓が焼失し、旧法の国宝指定を解除されています。
天守など焼失を免れた21棟の建造物については、1950年に改めて文化財保護法によって重要文化財に指定されました。
1952年には、二之丸と三之丸を含めた松山城山公園が国の史跡に指定されます。
1955年にロープウェイ、1966年に並行してリフトが設置され、利便性が高まり松山市を代表する観光地となりました。
放火によって焼失した本壇の建造物群は、1968年に木造で復元されました。
1992年には、大井戸などの遺構や茶室などが整備された松山城二之丸史跡庭園が落成します。
1989年には、松山城山公園が日本さくら名所100選に選定されています。
2006年に、松山城山公園が日本の歴史公園100選に選定され、日本100名城の81番にも選定されました。
2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選定され、2009年にミシュラン観光版日本編で二つ星に選定されています。
2014年にはトリップアドバイザーによる「行ってよかった!日本の城ランキング2014」においては、2位になっています。
そして、2019年には小天守など9棟が登録有形文化財に登録されています。
松山城のエピソード
松山城の天守には、徳川家と縁があることを示す丸に三つ葉葵の三つ葉左葵巴の紋章があります。
築城に着手したのは加藤嘉明ですが、完成直前に転封となり次の城主の蒲生忠知が二之丸などを完成させました。
しかし、蒲生氏は嗣子がいなかったため断絶し、次いで松平定行が城主となりました。
定行は本壇の改築などを行い、天守も築造したものの1784年の落雷によって焼失し、1852年に再建されています。
現在の松山城天守は現存12天守の中で唯一、親藩である松平氏が建築したため三つ葉左葵巴のもの将が付されているのです。
松平家は、明治政府から旧姓の久松を名乗るよう命じられ、家族に列せられました。
天守は平成に保存修理工事を行っているのですが、その屋根にある鯱には南側に天丸、北側にまつ姫と命名されていたことがわかりました。
平成18年に、この鯱にはお城の住民票が交付されています。
松山城には「かつえ山の伝説」があり、かつて貧乏だった長者がお金持ちになりたいと願って離れた毘沙門堂にお百度参りを行い、毎回境内の小竹を1本ずつ持ち帰っていました。
99日目の夜に、毘沙門天が夢の中で「願いはかなえてやるから竹を戻してくれ」と告げ、言われた通り竹を戻してお詫びと感謝を伝えると、そこから諸事万端が思うように進んであっという間にお金持ちとなります。
しかし、お金を持った途端話したこともない親族縁者や無関係な人まで屋敷に押し寄せるようになり、うんざりした長者はお金を使い切ろうとします。
しかし、どうあってもお金は増えていってしまいます。
そこで、とある人物が貧しくなる方法を長者に教えてくれ、言われた通りにすると次第に貧乏になっていき、最終的には山の上で餓死しました。
それをきっかけに、この山はかつえ山(飢え山)と呼ばれるようになったそうです。
まとめ
伊予松山城は、何度も消失と復元を経験した城です。
復元のたびに、歴史は積み重なっていくと言えるでしょう。
徳川に縁がある松平家が城主となったことで、幕府からも重視されている土地であることがわかります。
地元の人からも愛され、観光地としても多くの人が訪れている松山城は、今後も大切に保存されるべき建造物でしょう。