姫路城は、天守が現存している12城の1つで、別名は白鷺城と呼ばれています。
また、その中で国宝に指定されている5城の1つでもあり、日本で初めての世界遺産に含まれている城でもあります。
世界的に有名な姫路城は、どのような歴史があるのでしょうか?
特徴的なエピソードと共に、紹介します。
姫路城の歴史
姫路城は、兵庫県姫路市にあります。
1346年に播磨国守護の赤松則村の次男である貞範が姫山に築いた城で、当時は姫山城という名前でした。
その後は小寺氏が代々城主を務めましたが、1441年に赤松氏が断絶して上代の小寺職治は討ち死にしました。
そして赤松氏を打ち滅ぼした山名氏が播磨国守護となり、その家臣である太田垣主殿佐が城代となりました。
しかし、1458年に功績を上げた赤松政則が赤松氏の再興を許されると、1467年に山名氏と敵対する細川方につき、播磨国を取り戻します。
そして、姫路城に本丸と鶴見丸、亀井丸を築きます。
安土桃山時代になると、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨国を平定します。
姫路城の城主であった小寺氏は没落したのですが、その家臣であり城を預かっていた黒田は秀吉と吉見を通じていたため生き残り、秀吉に姫路城を献上しました。
姫路城の全容が完成したのは、1618年に西の丸が整備された時です。
明治時代になると姫路城は国有化され、城郭は軍事建築物なので兵部省の管轄となり、1872年に兵部省が廃止されると陸軍省に引き継がれ、大阪鎮台の管轄下になりました。
その際に全国城郭の存廃を定めたのですが、姫路城は存置となったものの維持費が莫大で老朽化も激しく、保存修理も難しいということで除却に着手します。
しかし、明治天皇巡幸で名古屋鎮台司令官の進言があり、除却は見合わせとなりました。
そのご、民間への売却が決まり競売が行われた結果、姫路米田町の神戸清一郎が23円50銭で落札しました。
ところが、姫路城はいつの間にか国有となっていました。
それについて、誠一郎の息子の清吉が裁判を起こそうとしたのですが、勝ち目が薄いとして訴訟を断念しました。
1874年、姫路城に三の丸を中心として歩兵第10連隊が設置された際は、弊社を増築するために本城と向屋敷、東屋敷などが撤去されました。
また、1882年には失火によって備前丸が消失してしまいました。
姫路城は国有になった後も腐朽が進んでしまい、陸軍では大天守の地階に補強支柱を建てています。
しかし、それ以降も腐朽は進んでいきいつ倒壊しても不思議はない状態だったため、更に大規模な工事が必要とされたため、9万円の予算を得て明治の大工事が行われました。
昭和になると、姫路城は史跡に指定されて文部省の管轄となります。
1931年には大小の天守など8棟が国宝に指定され、次いで渡櫓や門、塀など74棟も国宝となりました。
この場合の国宝は当時のもので、現在でいうと重要文化財の扱いになります。
平成になり、1992年には姫路城が世界遺産暫定リストに記載されます。
そして、1993年には法隆寺地域の仏教建造物と併せて日本初の世界遺産に登録されました。
それに伴い、2009年から2015年にかけて平成の大修理と呼ばれる、天守保存修理工事が行われました。
姫路城のエピソード
姫路城は古くからある城であり、様々なエピソードが残されています。
姫路という名前の元となったのは播磨国風土記に登場する日女道丘で、神代の昔からあるのです。
そんな姫路城の城主だった榊原政岑は信仰心に篤かったことで知られ、現在まで続く姫路ゆかた祭りを始めたことで知られています。
心豊かな城主ですが、日光代参の希望を幕府に出したものの聞き入れてもらえなかったことを不満に思い、酒色におぼれ吉原通いを始めます。
そこで色婦録にも艶名を遺す名妓の高尾を落石し、姫路に連れ帰って西屋敷に住まわせます。
こういった行状が幕府に知られてしまい、当時倹約を推奨していたこともあって政岑は糾弾されてしまいます。
それもあって20代のうちに隠居するよう命じられ、榊原家は越後高田へと転封され、連れてこられた高尾も一緒に越後高田へと下ることになりました。
この騒動は、榊原騒動と呼ばれています。
姫路城を築城した際は、店主が完成するとそこから1人の男が投身自殺をしたといわれています。
自殺したのは、城普請にあたった大工の棟梁の桜井源兵衛という者で、池田輝政に命じられて9年間仕事に打ち込み、ようやく姫路城が完成したのです。
しかし、せっかく完成空いた天守閣が、どうにも巽の方角に傾いているように思えてなりません。
そこで、妻と一緒に天守閣に登ってみると、やはり傾いていると指摘されてしまいます。
それは自分が測った寸法に狂いがあったせいだとショックを受けた源兵衛は、失意のあまりノミを咥えて飛び降りたと言われているのです。
実際に傾いていたことは解体修理で確認されているのですが、その原因は石垣が沈んでいたせいでした。
これ以外にも、有名な播州皿屋敷に出てくる緯度と言われるお菊井戸や、秀吉が石垣の石を集めていた際に老婆から受け取った石臼と言われる姥が石、宮本武蔵の妖怪退治伝説などが残されています。
まとめ
姫路城は、その外観でも有名な城です。
戦争中には、白さから爆撃の標的にされかねないと黒い網で偽装したこともあるほどで、優美な姿から白鷺城とも呼ばれています。
南北朝時代から明治、大正、昭和と長きにわたって活用された城で、日本の城の中では唯一世界遺産に登録されているため、世界的にも有名です。
見どころも多い城なので、これからも長くその姿を残していくでしょう。