徳川四天王の一人「酒井忠次」

歴史

酒井忠次は、徳川家康の父である松平広忠の時代から家臣として仕えてきた人物です。

そして、徳川家康が今川家の人質になる際に同行した家臣の一人でもあります。

徳川家康を幼少期から知っている人物といっても過言ではありません。

酒井忠次は徳川家康の家臣として、どのような生涯を送ったのでしょうか?

酒井忠次の生涯

酒井忠次は、1527年に松平家譜代家臣であった酒井忠親の次男として生まれます。

元服後は、徳川家康の父である松平広忠に仕えます。

酒井忠次が23歳の時に徳川家康が今川家の人質になったため、酒井正親の次に最高齢の家臣として同行しました。

親子で徳川家康と共に人質生活を送ることになりますが、その途中、父酒井忠親は家臣に惨殺されてしまうという辛い経験をしています。

そんな酒井忠次の初陣は、1556年でした。

福谷城を攻められた際、酒井忠次は城外で戦い、見事に柴田勝家を敗走に追い込んだのです。

その後起こった複数の戦いでも、酒井忠次は功績を残し、先陣を切って戦うことが任されるほどの信頼を得ました。

1560年の桶狭間の戦いの後は徳川家の家老になり、1563年の三河一向一揆でも徳川家康に付き従う姿を見せています。

そして、1570年の姉川の戦いでは、戦の火蓋を切った人物でもありました。

酒井忠次は姉川沿いに陣取り、朝倉軍に突入したのです。

その結果、長篠城の救出に成功し、武田勝頼の叔父である川窪信実などを討ち取ったという功績を残しました。

徳川家康の重臣としての活躍は、1582年の本能寺の変後にもありました。

織田信長亡き後の甲斐国、信濃国の掌握をする際、まず信濃国衆を手なずけるために酒井忠次が派遣されました。

しかし、信濃国への侵攻途中で諏訪頼忠などの離反があったため、この計画は失敗に終わります。

1584年、小牧・長久手の戦いでも酒井忠次はその手腕を発揮し、羽黒の戦いで森長可の敗走させる成果を残すなど、徳川家康と共に戦いました。

1586年になると、徳川家康第一の重臣の地位に就きます。

その背景には、宿老であった石井数正が豊臣秀吉のもとへ出奔してしまった事情がありますが、その後釜に信頼できる酒井忠次を登用したのです。

ところが、1588年に酒井忠次は長男に家督を譲り、隠居生活に入ってしまいます。

家督を長男に譲った理由は、加齢のため、眼病を患いほとんど目が見えなくなってしまったためと言われています。

長きにわたって徳川家康に忠義を尽くしてきた酒井忠次は、1596年に京都の桜井屋敷で70歳の生涯を終えました。

酒井忠次のエピソード

とはいえ、優秀な家臣であった酒井忠次が、徳川家康との関係に影を落としてしまった事件もあります。

それは、1579年に起こった「松平信康切腹事件」です。

これは、徳川家康の長男である松平信康がわずか20歳の若さで切腹を命じられてしまったという、徳川家にとっての重大事件です。

そして、知略に長けた酒井忠次でさえも解決できなかった事件と言われています。

切腹事件に発展した背景は、松平信康が政略結婚した相手、織田信長の娘との嫁姑関係にあると考えられています。

娘の嫁姑関係が悪化したことが織田信長のところに手紙で伝わってしまったため、徳川家康との同盟関係にひびが入ってしまう恐れがありました。

織田信長との対立は、何としてでも避けたいと考えたのでしょう。

ここで同盟関係を維持するため、酒井忠次は同じ徳川家康の家臣である大久保忠世と共に事態の解決を命じられます。

何とか状況を良くしようと力を尽くしますが、どうしても調整が上手くいきませんでした。

その結果、徳川家康は松平信康に切腹を命じなければなりませんでした。

事態を終息させるには、方法がなかったのでしょう。

親として、苦渋の決断をせざるを得なかったのです。

これについて徳川家康は酒井忠次に対し、酒井がしっかりしていれば、自分の息子に切腹を命じることはなかったと思っていました。

しかしながら、酒井忠次も苦労したのは事実です。

切腹事件は、それまで人間関係の調整役で功績を残していた酒井忠次にとって不運で、無念しか残らない出来事でした。

これを機に、徳川家康との関係が変わり、不当な扱いや嫌味を言われたりすることが目立つようになったのです。

それまで親しい間柄だったこともあり、嫌味などを言いやすかったのでしょう。

このような対応をされてしまうくらい、信頼していたとも考えることができます。

とはいえ、立場上は重臣になるという名誉を得ましたが、もしかすると複雑な気持ちを抱いていたかもしれません。

嫌味を聞くたびに、後味悪い事件を思い出してしまうはずです。

一説によると切腹事件は織田信長に仕組まれたものでないかと考えられていますが、酒井忠次の努力虚しく終わってしまった事件に変わりありません。

徳川家康との関係性が意図せずに大きく変わってしまったことは、残念だったはずです。

この事件さえなければ、良好な関係のままでいられたことでしょう。

まとめ

酒井忠次は、徳川家康が人質生活を送っている時から仕えている家臣になります。

数々の功績を残し、常に徳川家康と共に戦国武将たちと戦ってきました。

武功だけでなく知将としても有能であるため、徳川家康だけでなく織田信長などにも評価されていました。

しかし、有能な酒井忠次であっても徳川信康の切腹を防げなかったことは、悔やんでも悔やみきれないでしょう。

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