徳川家康には、三大好物と呼ばれる存在があったことで有名です。
「鷹殿」、「お六殿」、「佐渡殿」の3つですが、佐渡殿とは家臣の本多正信のことを示しています。
列挙されるくらいの存在である本多正信とは、どのような人物なのでしょうか?
今回は、本多正信の生涯とエピソードについてご紹介します。
本多正信の生涯
本多正信は、1538年に三河国の本多俊正の次男として生まれました。
徳川家康に仕えることになりますが、桶狭間の戦いで膝に傷を負ってしまい、足を引きずるようになってしまいます。
この影響から、生涯足が不自由だったと言われています。
1563年に起こった三河一向一揆では、徳川家康と対立し一向宗側として戦います。
一揆の鎮圧後は敵側に回ったこともあってか、徳川家康の下を出奔し、加賀国で過ごすことになります。
しかし、敵対した他の家臣と同じように、徳川家康の下へ戻ってきます。
この時、大久保忠世が徳川家康の仲介をしてくれたことにより、帰参が許されました。
その後は一説によると鷹匠として仕え、1582年頃には徳川家康の信頼を取り戻していたと言われており、強固な信頼関係が築かれていたのです。
1582年の本能寺の変の後は徳川家康の伊賀越えに付き従い、天正壬午の乱では甲斐・信濃国の統治を担当しました。
この時、武田家臣団に対し、本領安堵と引き換えに徳川家臣団への参集を呼び掛ける働きをしました。
徳川家康が豊臣秀吉に従属した際は、佐渡守に任命されます。
1600年の関ケ原の戦いでは、徳川秀忠軍に従っていたため、遅れて戦場に到着します。
ですが、本多正信は事前に上田攻めを中止するよう、徳川秀忠に進言していたそうで、それを素直に聞いていたら遅れることなく、戦が行われたのでないでしょうか。
1601年には、徳川家康が征夷大将軍になるための交渉を朝廷側と行い、1603年に見事将軍職に就任させることに成功します。
江戸幕府が開かれると徳川家康の側近として政治の主導権を握りますが、隠居後は将軍となった徳川秀忠の下で幕府政治の計画や相談に加わりました。
1607年に徳川秀忠付きの老中となりますが、1616年の徳川家康の死後は、嫡男に家督を譲り隠居します。
その後、本多正信は6月7日に79歳で生涯を閉じました。
本多正信のエピソード
本多正信は、どちらかというと武力よりも謀を巡らすのが得意な家臣でした。
徳川家康の家臣には、当然武力に優れ、出世欲が強い武将もいました。
本多正信はその反対で、権力の集中するところにいながらも、徳川家康からの提案を辞退するくらい出世欲の乏しい武将だったのです。
とはいえ、全く欲がなかったとは断言できません。
世の中の仕組みが外交や政治を重視するようになると、武力で貢献するより、学力や教育を重視する文治派が活躍するようになります。
本多正信も文治派であったため、頭角を現し、江戸幕府の政治を牛耳るようになりました。
幕府の中枢で活躍できることは、家臣にとって名誉あることです。
徳川家康と家臣の関係で見ると良好なことがほとんどですが、家臣同士の関係も同様だったとは言えません。
当然、考え方の違いから関係性が悪い武将がいたのです。
社会状況の変化と出世する家臣の派閥に対して面白くないと感じたのが、武断派と呼ばれる人たちです。
武断派は大名たちを武力で統率しようと考える派閥で、代表的な人物に大久保忠隣がいます。
また、本多忠勝や榊原康政を始めとする徳川四天王も武断派に属しており、これらの人々から本多正信や文治派は嫉妬を買うことになりました。
このような状況に、本多正信は黙っていません。
元々武力より謀、頭を使う戦いが得意だったため、対立派閥は謀略により次々失脚させられてしまいます。
まさに得意分野で戦った結果だと言えるでしょう。
ところが、謀略によって失脚させた報いは、後から巡ってきてしまいます。
なんと本多正信の死後に、息子が対立派閥に失脚させられてしまうのです。
自分の行為が息子に跳ね返ってきてしまった事態に、本多正信は悲しむかもしれません。
謀略の件があったとはいえ、徳川家康が全信頼を置いていたのは事実です。
それが分かるエピソードとして、徳川家康との話し合いの様子をご紹介しましょう。
本多正信は徳川家康と話し合いをする際、意見に賛成だと称賛し、反対の時に居眠りをしていたそうです。
現代においても話し合いで意見が合わないからといって、居眠りすることは許されません。
ですが、居眠りする態度をとったとしても、徳川家康との関係性からすると意思疎通がきちんとできていたと考えることができます。
実際に2人の関係のことを「盟友の如く」と、新井白石が表しているくらいですから、態度が悪いと思われることはなかったのです。
仮に謀略をしなかったとしても、本多正信が幕府政治の中心にいたことは間違いないでしょう。
まとめ
今回は、本多正信の生涯とエピソードについてご紹介しました。
三河一向一揆で徳川家康の下から離反するも、帰参が許され、後に幕府政治の中心人物になります。
武力よりも謀が得意な人物でしたが、出世すると武断派から嫉妬を買われることもありました。
主君に対し話し合い中に居眠りするエピソードからは、信頼関係があるからこその態度であり、盟友という言葉が相応しい関係性であることが分かります。