命を懸けて徳川家康を助けた「夏目広次」

歴史

松平家の家臣団の夏目広次は、三河一向一揆の際には離反し、敵対した家臣でもあります。

三河一向一揆で離反した家臣は後に帰参し、徳川家康に仕え続けましたが、夏目広次はまさに命をかけて尽くしたのです。

どのような行動を取ったのでしょうか?

ここでは、夏目広次の生涯とエピソードをご紹介します。

夏目広次の生涯

夏目広次は、1518年に三河国幡豆郡豊坂村で松平家に仕える夏目吉久の子として生まれます。

戦の舞台で登場したのは、1561年の三河長沢城攻めになり、そこで軍功をあげます。

徳川家康が今川義元の人質でなくなり独立したのが1560年になるので、三河国統一に向けて動き出した頃に夏目広次も活躍します。

1562年の三州八幡合戦では、今川氏の攻撃で自軍が総崩れになった際に殿を務め、奮戦したと言われています。

この功績から、徳川家康は名刀工の備前長光作の脇差を与えましたが、その一方で多くの家臣のように三河一向一揆で離反してしまいます。

1563年の三河一向一揆では一向宗側に寝返り、徳川家康と敵対し、野羽城に籠り戦います。

しかし、三河一向一揆は砦が陥落したことをきっかけに終わりを迎えました。

砦陥落のきっかけを作ったのは、乙部八兵衛という武将でした。

乙部八兵衛は夏目広次と同じように野羽城に籠っていたのですが、なんと徳川家康側の内通者だったのです。

情報が漏れていたことで、一揆は鎮圧されます。

夏目広次は徳川家康側についている松平伊忠に生け捕りにされましたが、離反を責められて終わったわけではありません。

松平伊忠が徳川家康にこれまでの功績などを踏まえ嘆願したことで、帰参が許され、再び徳川家康の家臣になることが許されました。

本来ならば帰参すら許されなかった立場だったことから、一層忠臣として励むようになります。

ところが、1573年の三方ヶ原の戦いで夏目広次は徳川家康の身代わりとなり、戦死してしまいます。

夏目広次は、55歳で生涯を閉じました。

夏目広次のエピソード

夏目広次の代表的なエピソードは、やはり三方ヶ原の戦いで徳川家康の身代わりになったことです。

戦況から徳川家康が不利なことを知り、救援に向かい、退却の説得をしますが、徳川家康は退却をすることなく戦うと言い、突撃しようとし止められませんでした。

説得を諦めた結果、夏目広次は刀のむねうちで馬の向きを変えさせると、自身が武田軍の追手に突入し奮闘します。

主君を逃がすため、強硬手段に出たのです。

ちなみに当時の戦では、顔でなく兜などの装備で武将を見分けており、突入前に自分の兜と交換し、徳川家康の兜を被っていきました。

徳川家康の兜を被っていた夏目広次を徳川家康だと武田軍は勘違いし、襲ってきます。

この時、わずか25騎しか率いていませんでしたので、奮闘と言っても限度がありました。

多くの人なら、もう負けると気持ちが折れてしまうかもしれません。

それでも身代わりとなって戦った夏目広次は、三河一向一揆での恩を返すのが今だ、と判断していたのでないかと考えられています。

たとえ負け戦だと分かっていても、自分の身を犠牲にした武将はこの時代大勢います。

大切な家臣をまた一人失ってしまったと、徳川家康も嘆いたことでしょう。

かくして、徳川家康の命は守られたのです。

多くの家臣の犠牲ののち、江戸幕府が開かれ、平和な世の中へと続いていくのです。

その功績は、今でも評価されることでしょう。

ここからは、時間を進め30年後の話をしましょう。

30年後、夏目広次の子が同僚と喧嘩した結果、斬り殺してしまう失態を犯します。

斬り殺した罪から逃れようと、自らの名前を変えて徳川氏に仕えましたが、名前を変えたとしても、すぐに同僚を斬り殺した事実が発覚してしまいます。

それは、1600年の関ケ原の戦いの時のことでした。

通常であれば、罪を犯し、欺いていたことを徹底的に咎められるでしょう。

ところが徳川家康は、咎めることをしませんでした。

なぜなら、父夏目広次のおかけで自分が生きていると話したからです。

夏目広次が身代わりとなって亡くなったのは30年も昔の話になりましたが、徳川家康はその恩を時が経っても忘れていませんでした。

これは、思わぬところで恩返しがあったと感じられる出来事でもあります。

恩義から寛大な判断がなされたと考えることができますが、このような対応は事情が違えども他の息子にも行われたそうです。

徳川家康は恩義のある家臣に対して、亡き後もその家族を大事にしています。

この行為自体は決して許されるものではありませんが、恩義が感じられるエピソードとして広く知られています。

徳川家康に限らず、自分の主君を天下人にするため、命も惜しまなかった家臣のエピソードは今でも語り継がれています。

三河一向一揆による行動は家臣団に大きな衝撃を与えたものの、何とか乗り越えることができたからこそ、歴史上で語られる幕府政治に繋がったのかもしれません。

家族のことも含めて、次世代に繋がった行動をした人物と言えるでしょう。

まとめ

ここでは、夏目広次の生涯とエピソードをご紹介しました。

夏目広次は戦で多くの功績をあげましたが、三河一向一揆で信仰心との板挟みに苦しみ離反してしまいます。

帰参を許された後は、三方ヶ原の戦いでは恩に報いるため、命を懸けて徳川家康を守りました。

その行動は、家族の危機を救っただけでなく、一族の未来にまで繋がっていることを忘れてはいけません。

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