徳川家康の弟「久松源三郎勝俊」(松平康俊)

歴史

徳川家康には、「久松3兄弟」と呼ばれる異父弟がいます。

久松3兄弟は、於大の方が久松俊勝に嫁いだ際に生まれました。

徳川家康も幼少期から苦労してきた人物ですが、その兄弟はどのような人生を送ったのでしょうか?

ここでは、天下人の兄弟であった久松源三郎勝俊の生涯とエピソードをご紹介しましょう。

久松源三郎俊勝の生涯

久松源三郎俊勝は、尾張国阿古居城で久松俊勝の3男として生まれます。

通称は「源三郎」、元服した際に「久松俊勝」と改名、後に徳川家康から松平姓と諱の一文字を贈られ「松平康俊」に改名することになります。

実は1560年に徳川家康が城を訪ねた際に対面していたようで、『寛政譜』によると10歳に満たなかったそうです。

関係はここで終わることなく、徳川家康と再び繋がることになります。

1563年に、徳川家康から今川氏真の人質として駿河国に行くよう命じられるのです。

しかし、今川氏真の人質時代は5年後に終わりを迎えます。

1568年に武田信玄が侵攻した際、三浦与一郎という今川家の使いが久松源三郎勝俊ら人質を伴って武田軍に転じたのです。

当時、武田信玄は徳川家康と同盟を結んでいたため、味方に助けられたと喜んだことでしょう。

実際に武田信玄も、人質たちが来たことにはとても喜びました。

しかしそれは、武田信玄が徳川家康側の人質を手に入れたという意味であり、無事に助けることができたという意味ではありません。

政治で有利になる人材を、手に入れたにすぎないのです。

そのため、人質たちが国に戻ることを許さず、警護の下に置きました。

監視する人物が変わっただけで、久松源三郎勝俊の人質生活は続くことになります。

そこから数年経った1570年、久松源三郎勝俊は徳川家康の手配により、甲斐国からの脱出に成功します。

ここでやっと、今川氏、武田氏の長い人質生活から解放されることになります。

この時、幼少期からの忠節が評価され、久松源三郎勝俊は徳川家康から「一文字の刀」と「当麻の脇差」を与えられました。

1583年に駿河国の久能城が与えられますが、3年後の1586年、久能において久松源三郎勝俊は35歳で生涯を閉じてしまいます。

結婚はしたものの、正室との間に女子が1人で跡継ぎがなく、存続の危機に立たされます。

そこで、久松源三郎勝俊の死後に於大の方が実の弟の子どもである水野忠分の子ども「松平勝政」を婿養子に迎え、跡を継がせたことで無事存続できたのです。

久松源三郎勝俊のエピソード

ところで、久松源三郎俊勝が人質に命じられたのには理由があります。

今川義元が戦死し独立した徳川家康でしたが、正室の築山殿や長男の徳川信康、長女の亀姫は一緒に戻ってくることが叶いませんでした。

自分の家族の奪還を考えた際の行動が、人質交換です。

今川氏真の親戚であった鵜殿長照、鵜殿氏長、鵜殿氏次の3人を人質にすることで、家族3人を取り戻そうとしたのです。

しかし、3人を捕えようとしたところ鵜殿長照が討死してしまったため、鵜殿氏長、鵜殿氏次の2人しか取引に応じられません。

そこで自分の血縁関係上近い存在にある、久松源三郎俊勝を人質として送り出したのです。

徳川家康の家族を奪還する目的であっても、敵の下へ行くことに変わりありませんから、不安も大きかったはずです。

命の安全の保障もない中の人質生活は、想像を絶するものだったでしょう。

そんな人質生活も数年後に終わりを迎えるのですが、脱出時が壮絶だったことが有名なエピソードとして残っています。

三河国に向かう際中、久松源三郎勝俊は下山路を経由しましたが、ここでトラブルが起こります。

下山路は豪雪地帯であったため、脱出時に大雪の中を歩きぬいた久松源三郎勝俊は両足の指を凍傷により失ってしまったのです。

過酷な脱出劇であった様子が、体の状態から感じ取ることができます。

人質になった経緯から考えると、久松家の嫡男であったならば、過酷な生活を送らなかった可能性があります。

もしかすると、嫡男以外だったために人質になり得る候補として名が挙がったかもしれません。

もしそうだったなら、凍傷にもならず違う未来があったことでしょう。

徳川家康も、もしかするとそれを理解していたのかもしれません。

脱出後に褒美を与えたことは、これまでの功績だけでなく、いらぬ苦労をさせてしまったという気持ちも込められているのでしょう。

とはいえ、久松源三郎勝俊が人質に応じてくれたからこそ、自分の家族を取り戻すことができたのは確かです。

35歳という若さで亡くなりましたが、もう少し長生きしていたらどうでしょう。

他の兄弟は長生きし、それぞれ徳川家康に貢献していました。

大舞台での貢献ではありませんが、過酷ながらも人質という重要な役割を果たしたことに違いありません。

久松源三郎勝俊がいなければ、徳川家康は家族との時間を取り戻せなかったはずです。

まとめ

ここでは、久松源三郎俊勝の生涯とエピソードについてご紹介しました。

徳川家康の異父弟であり、今川氏真の人質になる命を受けて人質生活を送ります。

途中で武田信玄の下に移りますが、そこでも監視下に置かれ、今川氏と武田氏での長い人質生活を経験しました。

三河国へ向けて脱出する際、豪雪地帯を歩きぬき凍傷で両足の指を失ってしまいましたが、長い間徳川家康のために行動した姿勢は評価に値します。

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