藤原道長のもう1人の妻「明子」(源明子)

歴史

藤原道長も平安時代の貴族ですので、妻が複数いました。

正室は倫子でしたが、妻妾に今回ご紹介する明子がいます。

しかし、倫子と明子の子どもたちは同じように出世できませんでした。

どうして差がついてしまったのでしょうか?

明子の生涯とエピソードから、その理由を見てみたいと思います。

明子の生涯

明子は、975年頃、左大臣源高明と藤原師輔女の愛宮の間に生まれました。

源高明は学問に優れ、朝廷での儀式に通じている人物だったため、朝廷で重んじられていました。

しかし、969年に起こった安和の変で源高明が大宰権帥に左遷になると、自宅が焼失、してしまい、息子と妻が出家することになります。

そんな安和の変による混乱の中、明子は叔父の盛明親王の養女になりました。

ですが盛明親王が亡くなると、藤原詮子の庇護を受けます。

そして、藤原道長が正室倫子と結婚した翌年988年に結婚し、藤原頼宗や藤原顕信など6人の子どもたちを育てました。

結婚の際に、源高明が所有していた高松殿を明子が受け継いだことから、「高松殿」と呼ばれるようになります。

明子は1049年に亡くなりますが、その後孫たちが天皇や関白に嫁いだことで、皇族や五摂家にまで血筋が繋がっています。

明子のエピソード

明子の人生を左右したのは、安和の変です。

事実上流罪になったことが、その後の生活に影響を及ぼしたのは言うまでもありません。

特に影響があったのが、正室倫子と比較されたことです。

倫子の父は左大臣源雅信であり、当時の政治の重要人物でした。

それに比べ、明子の父は流罪により政界を追放された身ですから、親の身分や立ち位置からすると大きな差があるのが明らかです。

また、当時藤原道長は源雅信の土御門殿に住んでいたことも、正室か妾妻かを決める一因になったとされています。

このようなことから、倫子は正室、明子は妾妻の地位にされてしまったのです。

一説によると、倫子と結婚する前に藤原道長は明子と結婚していたと考えられています。

それでも明子が妾妻としてみなされていたのは、悲しいことですが親の事情によるものが大きいのでしょう。

そして、妻としての立場の差だけではありません。

生まれた子どもたちにも、身分的な差が生じました。

倫子の子どもたちは、源雅信の影響もあり嫡子扱いを受けます。

その結果、重要な役職に就くこともあり、一族は繁栄の道を歩きます。

他方で、明子の子どもたちの出世の範囲は限られており、高い地位に就くことができませんでした。

女子の場合も同様で、入内し中宮や皇后になることはありません。

同じ父から生まれた子どもたちであるにも関わらず、大きな差が開いてしまったのです。

とはいえ、子どもたちが出世を諦めたわけではありません。

実は、藤原頼通と協力しながら出世を図ろうとしたこともあったのです。

ですが、明子の子どもの藤原能信だけが、それを拒否し、本来なら協力し合うべき藤原頼道と口論になり、藤原道長の怒りを買ってしまいます。

藤原能信は子どもたちの中でも、藤原道長に似て勝気な性格であったため、協力し合って出世の道を開く方法に納得できなかったのでしょう。

明子に限らず、子どもたちも思うようにいかない状況に不満を持っていたはずです。

ところで、藤原道長はこの状況に対し、どう思っていたのでしょうか?

明子との結婚では、倫子のように正式な婚儀が行われませんでした。

しかしながら、妻としての地位は安定していたそうです。

その理由は、倫子と明子が生んだ子どもの人数にあります。

どちらも6人の子どもを授かっており、子どもの人数で差を設けることをしなかったのです。

さらに、倫子と明子の妊娠はほぼ同時並行的だったので、藤原道長はどちらか一方に肩入れするようなことをしなかったのでしょう。

立場的な差はあったものの、倫子と明子に対し平等に接していたのでないかと考えられます。

家柄における差は、藤原道長でもどうにもならなかったことなのかもしれません。

妻としての地位まで軽んじていなかったことは明らかですから、この点に関して明子も救われていたはずです。

もし、藤原道長が家柄と同じように妻たちの対応にも差をつけていたならば、どうなっていたでしょうか?

妻としての立場が不安定で、精神的にも不安を抱えてしまうかもしれません。

6人の子どもたち全員にも、出会えなかったことでしょう。

藤原道長の配慮によって、正室との関係が大きく拗れなかったと考えるべきです。

家族との穏やかな時間が急に失われてしまった明子でしたが、藤原道長や子どもたちとの関係はそれほど悪くなかったはずです。

一夫多妻制の時代で倫子と明子、妻同士の悪い話が少なかったのは、藤原道長の努力があったからだと思われます。

まとめ

今回は、明子の生涯とエピソードについてご紹介しました。

明子は父源高明が事実上の流罪となったため、藤原道長との結婚において正室でなく妾妻としてみなされます。

妻としての地位だけでなく、子どもたちの出世にも家の事情が付きまとい、人生は苦労の連続でした。

とはいえ、藤原道長の配慮により、妻としての立場が安定していたことから、嫉妬に駆られるなど精神的に不安になることがなかったのでないかと想像できます。

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