漫画やゲームで有名な戦国武将の前田慶次には破天荒なイメージがありますが、詳細な史料がなく謎に包まれた人物でもあります。
加えて、慶次という名も本名でないと考えられています。
しかしながら、主君に対しては最期まで律儀な人物だったそうです。
今回は、謎多き傾奇者前田慶次の生涯とエピソードをお話しします。
前田慶次の生涯
前田慶次の生没年や家族関係については、不確定であり断言することができません。
前田利春の長男として生まれ、幼少期より荒子城で暮らしていたそうですが、実父に関しては諸説あります。
前田利久が養父だった説もあり、これは妻の実家から養子として引き取った経緯があります。
しかし、前田慶次は荒子城でずっと過ごすことはできませんでした。
1569年に前田利久は前田利家に家督を譲った際、隠居を余儀なくされたため、前田慶次は養父に従い城を出たのです。
家督を譲ったのは病弱によることが理由ですが、その判断は織田信長によるものです。
前田利久は本来なら養子の前田慶次を次期当主にしようと考えていたのですが、それが叶いませんでした。
ですが、1581年頃には織田信長の元で累進していた前田利家を頼り、仕えるようになります。
また、1590年の小田原征伐では、前田利家が北陸道の惣職を命ぜられ出生する際に前田慶次も従ったそうです。
ここまで前田家に仕えていた前田慶次ですが、1590年に突然出奔してしまいます。
出奔後は、京都で浪人生活を送りながら、多数の文人と交流し、戦から離れた生活をしていたようです。
1598年~1600年までは上杉家に仕官しており、組外衆筆頭として1000石で仕えていたことが分かっています。
関ケ原の戦いの際も主君の上杉景勝が西軍側についたため、前田慶次もそれに従い活躍しました。
西軍敗退後は上杉氏が米沢に移ったためそれに従い、前田慶次は和歌や連歌を嗜みながら過ごしていたそうです。
晩年に関しても不明な点が多いですが、痞えの病を発症した後、保養のため大和国に移り、仏門に入った後、1605年に亡くなったと考える説があります。
大和国に移った際も、病気のため静かに過ごすのでなく、賑やかに過ごしていたようですから、常に活発だった人物だと考えられるでしょう。
前田慶次のエピソード
前田慶次の「傾奇者」としての私たちが知るイメージは、出奔し、京都に滞在していた際に形成されたと言っても過言ではありません。
きっかけとなる出来事の1つは、豊臣秀吉が開いた宴で起こりました。
そこには諸国の大名が招待されており、前田慶次はその場に紛れ込み、下座から面白おかしく踊ってきたそうです。
諸国の大名たちという身分の高い人がいる中で、このような行動をすることに驚かれる方もいるでしょう。
しかしながら、参加者たちは猿舞の遊芸を真似ていたことを知っていたため、場が混乱することがなかったのです。
そして、前田慶次は踊るだけでなく、なんと大名たちの膝の上に乗るということをしたのです。
常識的に考えると、失礼に値します。
次々と膝の上に乗っていく中、ただ一人乗ることができなかった人物がいました。
それが、後に主君となって仕える上杉景勝です。
なぜ膝の上に乗れなかったのかというと、乗ってはいけない雰囲気があったからだそうです。
これは、前田慶次本人が述べていたことで、ふざけていてもふざけてはいけない人というのが分かっているからこそ、あえて膝に乗るようなことをしなかったのです。
人を見る冷静さがあったため、本当に失礼なことはしなかったのでしょう。
実際に前田慶次は人柄や思想に惹かれたところがあり、上杉景勝に仕えることを決めたそうです。
上杉家に仕えるきっかけは、こんなところにもあったのです。
いくら傾奇者と言われても、ただふざける、賑やかすのとは違うことが分かります。
後にこの出来事を知った豊臣秀吉から、「傾奇御免状」が与えられ、傾奇者として生きることを言われました。
これにより、傾奇者として前田慶次が知れ渡るようになるのです。
評価は偶然かもしれませんが、時の権力者から一目置かれる存在となったことは周囲にも様々な影響を及ぼしたことでしょう。
私たちは傾奇者に対し、派手で常識を超えた行動をするイメージを持ちますが、ただふざけているのではありません。
そのような行動をしながらも、信義を重んじる人のことを示すのです。
それがなければ、ただの迷惑な人に過ぎないでしょう。
前田慶次は、常識を超えた行動がありながらも、信義を重んじた行動をしてきたため、多くの人が認める傾奇者の代表者として紹介されているのです。
彼の生涯やエピソードを見ても、自由であることを第一としながらも、わがままな行動で周囲を困らせることはありませんでした。
晩年も傾奇者としての生き方を通したことから、少しでも後悔のない人生を送れたのでないでしょうか。
まとめ
今回は、前田慶次の生涯とエピソードをお話ししました。
出奔後は浪人生活を送っていましたが、後に尊敬する主君上杉景勝に仕え、活躍していきます。
晩年も体調のため静かに過ごすことなく、賑やかに過ごしていたため、傾奇者と評されるほどの人生を送りました。
傾奇者と呼ばれるようになったエピソードから、破天荒であると同時にただふざけているだけでない人物であることが分かります。