摂関政治の最盛期に即位していた天皇は、一条天皇になります。
藤原道長の政略から一帝二后の先例を開いた一条天皇でしたが、これは苦渋の決断の結果によるものでした。
そして、藤原定子のことは最期まで忘れられなかったのでないかと考えられています。
今回は、一条天皇の生涯とエピソードをご紹介します。
一条天皇の生涯
一条天皇は第66代天皇で、円融天皇と藤原詮子の間に生まれた第1皇子になります。
諱は懐仁で、984年に花山天皇が皇位を継いだ際に、継承順位第1位の皇族として立てられました。
しかし、天皇としての役目はすぐに回ってきます。
986年に起こった寛和の変により花山天皇が出家してしまい、一条天皇が即位することとなったのです。
この時、一条天皇は数え年で7歳でした。
一条天皇の早期即位は藤原兼家の陰謀と言われており、実際に即位後、摂政に就任しています。
藤原兼家亡き後は、息子である藤原道隆が外戚として関白を務め、娘の藤原定子を入内させ中宮にしました。
ですが、995年に藤原道隆が薨去すると、弟の藤原道長が権力を握ろうと画策し始めます。
藤原道長が内覧で実権を握った際は、娘の藤原彰子が入内し中宮になる事態となり、一帝二后の先例を作ることになってしまいます。
それでも、藤原定子との間に生まれた敦康親王を皇太子に望み、藤原彰子からも賛同を得ていました。
ですが、これは藤原道長の意向により叶いませんでした。
また、以前から一条天皇は譲位の意向を藤原道長に伝えていましたが遺留されてしまい、もどかしい思いをしていたことでしょう。
そんな中、1011年に病が重くなってしまい、三条天皇に譲位します。
譲位後すぐに出家しましたが、3日後に32歳という若さで崩御します。
一条天皇は藤原道長と強調して政治を行ったと同時に、この時代に有能な人材が輩出されました。
良い政治が行われた時代である一方で、一条天皇は藤原道長の政略に翻弄されてしまい、思うような政治ができなかったと言えるでしょう。
一条天皇のエピソード
政治面で大きな変動がいくつもあった一条天皇ですが、穏やかな人物であったとされています。
また、一条天皇の時代は、清少納言や紫式部のような女流文学が栄えた時代でもあります。
一条天皇も文学に関心があり、音楽にも堪能で多くの人から慕われるほどでした。
さらに、猫に位を与えたというほど猫好きだったことで知られており、内裏で生まれた猫に儀式を執り行い、乳母を付けたというエピソードも残っています。
ところで、一条天皇は最期に、藤原定子のことを想ったと考えられる辞世の句を残しています。
藤原行成の『権記』に、「露の身の風の宿りに君をおきて塵を出でぬる事ぞ悲しき」という句があります。
「成仏しきれていない定子を残して、自分だけ成仏するのは悲しい」という意味で、藤原行成は「君」を藤原定子のことだと考えたのです。
しかしながら、藤原道長の『御堂関白記』には、「露の身の草の宿りに君をおきて塵を出でぬることをこそ思へ」と書かれています。
この句の「君」は藤原彰子のことだと考えており、どちらを想って詠んだ句なのか解釈が分かれているのです。
一条天皇は基本的に藤原定子、藤原彰子、他の女性に対して、偏りなく平等に接していたとされています。
その一方で、藤原道長に対しては好ましく思っていなかったとも考えられています。
『愚管抄』には、一条天皇の崩御後、藤原道長と藤原彰子が遺品整理を行った際、1通の手紙を発見し、それが焼き捨てられたことが記載されています。
手紙には、「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていました。
これを藤原道長は、自分の一族の影響で国が乱れていると解釈したのです。
藤原道長にとっては、言い掛かりをつけられたようなものですが、的を射る発言に思えたのでしょう。
藤原定子は明るく才気があり、好学な一条天皇と特に相性が良く、周囲が仲睦まじいと思うくらいでした。
他の娘の入内を藤原道隆が止めていたという話もありますが、2人の仲を見て介入できなかったという話もあったくらいです。
ですが、藤原道隆が薨去してから、一家の栄華に陰りが見え始め、どんどん没落していってしまいます。
一条天皇としては、藤原定子を守りたいところでしたが、政治の世界はそう簡単にいきません。
藤原道長の意向を無視することができず、寵愛していた藤原定子を守ることができなかったのです。
大切な人との仲を引き裂かれたと考えると、藤原道長のことを恨んでいたはずです。
だからこそ、あのような辞世の句を詠んだのでしょう。
さらに、遺品整理で発見された手紙の内容についても、もしかすると自分を取り巻く状況を冷静に見ていたのかもしれません。
国の政治のために行動した一条天皇は、藤原定子のことに関して悔やんでばかりだったでしょう。
まとめ
今回は、一条天皇の生涯とエピソードをご紹介しました。
藤原兼家の陰謀により、数え年7歳で即位した一条天皇は、藤原氏と共に政治の世界を歩んでいきました。
特に仲が良かったのは藤原定子で、一条天皇が最期の時まで想い、辞世の句を詠んだのでないかと考えられています。
政治面では苦労が多かった一条天皇ですが、女流文学が栄えた時代を築き上げ、好学な人物であったとされています。