徳川家康から信頼された女性「阿茶局」(雲光院)

歴史


徳川家康に複数の妻がいましたが、阿茶局は政治面でサポートしていた女性になります。
正室や他の側室と違った阿茶局の活躍は、女性でありながらも徳川家康の信頼を得ることになりますが、なぜそうなったのでしょうか?
また、どのような場で活躍していたのでしょうか?
今回は、阿茶局の生涯とエピソードをご紹介します。

阿茶局の生涯

阿茶局は、武田家の家臣だった飯田直政の娘として生まれます。
神尾忠重に嫁ぎ、2男を儲けますが、その3年後に夫が亡くなってしまいます。
神尾忠重は、武田信玄の異母弟であった一条信龍に仕えており、今川家で育った経緯がありました。
つまり、今川家と繋がるための結婚だったのです。

1579年になると、徳川家康の側室として迎えられます。
側室としての役割は子どもを産むことですが、阿茶局はそれが叶いませんでした。
小牧・長久手の戦いでは、陣中で一度懐妊したのですが、悲しくも流産してしまいます。

そんな時、阿茶局にはある役割が課されました。
それは、1589年に亡くなった於愛の方(西郷局)の代わりに、徳川秀忠と松平忠吉を養育することでした。
後に神尾忠重との子どもである神尾守世は、徳川秀忠の小姓となり、親子揃って徳川家のサポート役に回ります。

才能や知恵に優れていた阿茶局は、徳川家康から奥向きの諸事を一切任されるほどの立場になります。
そして、大坂冬の陣においては、和議の成立に貢献しました。
この時、浅井三姉妹の1人で淀殿の妹である常高院や淀殿の乳母であった大蔵卿局と会見し、和議の成立に向け尽力したのです。

徳川家康の死後は江戸に移り、雲光院と号します。
1620年には、徳川秀忠の娘である徳川和子が後水尾天皇の女御として入内する際、母代わりの守役を阿茶局が務めました。
その功により、後水尾天皇より従一位を授けられました。
これにより、一位尼、一位局と称されるようになります。

阿茶局は、1637年に亡くなりました。
晩年は、諸大名からの多くの献上品を受けており、さらに徳川家光からの手厚い処遇もあって、これまでの生活と変わり、豊かで落ち着いた生活をしていたそうです。

阿茶局のエピソード

阿茶局が徳川家康から信頼されていたのは、政治的手腕に優れていたからです。
実は徳川家康の身の回りのことで、阿茶局が担っていた役割があります。
それは、装束の手配です。

装束とは特別の目的に備えた衣装のことで、どの衣装を着用するかによって、相手方の見方が大きく変わってしまいます。
特に政治的に重要な場面においては、対話内容や駆け引きと同じくらい、身に着ける装束が重要視されていました。
仮に装束の手配を間違ってしまうと、交渉や駆け引きが全て上手くいかず、失敗してしまうのです。

装束の手配を任される人には、大きなリスクがのしかかります。
そのような役目を任されていた阿茶局は、徳川家康に自身の能力を認められていたため、他の女性たちと違った立ち位置にあったのです。
だからこそ、小牧・長久手の戦いにも同行していました。
戦に阿茶局が必要だと考えたからこその行動だったと、言っても過言ではありません。

そんな阿茶局が得意としていたのは、仲裁役です。
大坂の陣において和議の成立に関わったことは先述の通りですが、女性同士で交渉した方が良いと徳川家康の提案から、阿茶局が交渉の場につきました。
なぜなら、この時の交渉の主導者が淀殿だったため、女性に交渉の場に立ってもらった方が良いと考えたのです。

そして、他の女性ではこの役割が難しいと考え、徳川家康の采配により阿茶局が選ばれました。
この交渉で徳川方、豊臣方の今後が決まってしまいますから、責任重大です。
阿茶局も緊張したかもしれませんが、プレッシャーをものともせず説得したことから、その能力は家臣たちの間にも知れ渡っていたことでしょう。

徳川家康からの信頼は、死後の遺言からも読み取れます。
遺言には、徳川秀忠を助けるように命じた内容があったのです。
阿茶局は、徳川家康の死後は剃髪し仏門に入ろうと考え、賜った金貨で寺院「雲光院」を創建しました。

ですが、遺言では剃髪せずに徳川秀忠のサポートをしてほしいとあったため、在家のままで「雲光院」と号したのです。
雲光院と号した経緯を知ると、どれほど頼れる人物だったのかが改めて分かります。

徳川家康との子どもに恵まれませんでしたが、阿茶局はそれ以上に大きな貢献をしました。
当時の女性の中には、公的なサポートをしていた人も少なくありません。
ですが、そのようなサポートを任せられるのは、能力の高い女性に限られます。

阿茶局は、現代でいうところのキャリアウーマンだったのでしょう。
徳川家康に限らず、徳川秀忠も信頼していましたから、徳川家にとってなくてはならない存在だったのです。

まとめ

今回は、阿茶局の生涯とエピソードをご紹介しました。
神尾忠重に先立たれた後、徳川家康の側室として迎えられましたが、阿茶局の能力は非常に高く、政治面でのサポートを任せるほどでした。
重要な局面で徳川家康と共に行動し、良い結果に導いており、徳川家康の死後も徳川秀忠をサポートしました。
徳川家康との子どもに恵まれませんでしたが、政治的な場での活躍において阿茶局の右に出る者はいないでしょう。

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