豊臣秀吉に仕えた武将の1人、小西行長は優れた知将でした。
キリシタン大名でもありましたが、加藤清正との対立が人生を揺るがす大きな事態になっていくのです。
どうして、お互いに対立するようなことになったのでしょうか?
ここでは、小西行長の生涯とエピソードをご紹介します。
小西行長の生涯
小西行長は、1558年に京都で堺の商人の小西隆佐の次男として生まれます。
後に備前の商家に養子入りし、宇喜多直家のところへ商売で出入りしていた際に、才能を見出され武士になったと言われています。
宇喜多直家の家臣時代、三木城攻めを行っていた織田軍の豊臣秀吉のもとへ使者として遣わされた際に気に入られ、豊臣秀吉に仕えるようになりました。
豊臣政権では、舟奉行に任命され、水軍を率いて活躍するようになります。
九州平定や肥後国人一揆討伐で功をあげると、肥後国の南半国宇土、益城、八代の3郡20万石が与えられ、2年後には宇土古城の東の地に新しい宇土城を築城しました。
文禄の役では先鋒として活躍しますが、講和条件をごまかすよう西笑承兌に頼んだものの失敗し、講和が破綻してしまいます。
これにより、停戦のための偽装がばれてしまった小西行長は豊臣秀吉から激しい怒りを買い、死を命じられてしまうのです。
西笑承兌や淀殿などのとりなしにより一命を取り留めましたが、慶長の役では講和の失敗を武功で償うよう厳命されています。
豊臣秀吉の没後は帰国し、徳川家康に接近しますが、関ケ原の戦いでは西軍として参戦します。
しかし、小早川秀秋の裏切りをきっかけに隊が崩れてしまうと、伊吹山中に逃れ、数日後関ヶ原の庄屋の林蔵主に匿われました。
小西行長は林蔵主に対し、捕縛させ褒美をもらうことを進めましたが、その申し出を受けませんでした。
その代わり、竹中半兵衛の嫡子である竹中重門家臣に事情を話し、草津の村越直吉の陣まで小西行長を連れて行きます。
その後、捕縛された小西行長は市中引き回しの後、六条河原で斬首されました。
元々商家の子どもでしたが、宇喜多直家や豊臣秀吉に才能を買われ信頼されていた小西行長は、関ケ原の戦いの首謀者として最期を迎えたのです。
小西行長のエピソード
加藤清正は小西行長より4歳年下ですが、朝鮮出兵以前から対立関係にありました。
その原因は様々ありますが、宗教が絡んだあるエピソードがあります。
小西行長は熱心なキリシタンですが、加藤清正は熱心な日蓮宗信者でありました。
そして、単に信仰する宗教が違うというだけでなく、戦略的な面にまで影響を及ぼしてしまいます。
そのきっかけとなった出来事は、「天草国人一揆」です。
これは、天草諸国の住民であった天草氏、大矢野氏、上津浦氏、栖本氏、志岐氏の天草五人衆が反乱を起こした出来事です。
天草五人衆は元々九州平定の際臣従したため、本領を安堵されていました。
しかし、宇土城の築城の要求を拒否したため反乱を起こし、小西行長と加藤清正に制圧されたのです。
とはいえ、小西行長は始めから武力制圧をするつもりはありませんでした。
なぜなら、天草衆にはキリシタンが多かったからです。
上述のように熱心なキリシタンだった小西行長は、同じ宗教を信仰していることから、穏便に解決できないか模索しました。
さらに降伏させた後は、家臣団に加えようと考えていました。
お互いにとって良い道を模索しようと、小西行長なりに考えたのでしょう。
このように地域の特徴を理解した上で解決策を見出そうとしたのですが、そこに加藤清正が強引に割り込んできてしまったのです。
その結果、小西行長は加藤清正と共に一揆を制圧するしかなく、理想とした対応ができませんでした。
一説によると、小西行長が援軍を要請したため、加藤清正はそれに応じ共に平定することになったと考えられていますが、実際は違います。
加藤清正は、小西行長の水軍が強化されないようにするため、あえて行動したのでないかと考えられています。
実は天草諸島は、海上勢力の足場になる場所でした。
豊臣秀吉も海上勢力を掌握することを狙っていたため、天草諸島を掌握できると豊臣政権に好影響を与えます。
一揆をきっかけに掌握しようと考えるのは、当然のことです。
戦略的な面から考えると、これは悪いことではありません。
ですが、加藤清正からすると、小西行長の手によってそれが実現するのは好ましくありませんでした。
そのため、小西行長が対処している最中に、介入する必要があったのです。
自分の手柄にしたいと考えた結果、起きてしまったと言えます。
様々な出来事の積み重ねで生じたものかもしれませんが、それが大事な場面に影響したことは間違いありません。
小西行長も、お互いに協力し合いながら豊臣家に貢献できたらと考えていたかもしれませんが、上記の事情を知ると難しかったことが容易に想像できます。
対立が深まってしまったのは、無理もないでしょう。
まとめ
今回は、小西行長の生涯とエピソードをご紹介しました。
元々商人の子どもでしたが、才能を見出され武士となり、豊臣秀吉から信頼されるほどに成長します。
加藤清正とは様々な出来事で対立してしまい、それがきっかけで豊臣政権の存続が危うくなる事態を招いてしまいます。
加藤清正との対立関係がここまで深くならなければ、小西行長の運命は違っていたのでないでしょうか。