黒田長政は、軍師として有名な黒田官兵衛の息子で、幼い頃は信長の下で人質となり、信長の死後は秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍を勝利に導きました。
勇猛果敢な武将というよりも、父譲りの戦略家として有名です。
黒田長政は、どのような人生を送ったのでしょうか?
黒田長政の生涯と、特徴的なエピソードを紹介します。
黒田長政の生涯
1568年に、黒田孝高(官兵衛)と正室である櫛橋光との間に、嫡男である黒田長政が生まれました。
幼名は、当時縁起がいいとして多くの子どもに名付けられた松寿丸と名付けられました。
孝高は織田信長に伺候して、家臣の羽柴秀吉に従っていました。
1577年に、信長が播磨諸侯に人質を提出するよう命じたのですが、主君の嫡男が病気だったため代理として松寿丸を秀吉に人質として預けます。
人質となった松寿丸ですが、秀吉・おねの夫婦からはそろって我が子のように可愛がられます。
また、別所重棟の娘と婚約していたものの、破談となってしまいました。
1578年に荒木村重が反乱を起こした際は、父の孝高が説得に向かったものの拘束され、戻らない孝高が裏切ったと思った信長が、松寿丸の処刑を命じます。
しかし、竹中重治(半兵衛)が密かに匿って、信長には処刑したと報告したため難を逃れることができました。
有岡城が陥落して孝高が救出され、疑いが晴れて松寿丸も姫路に帰郷できました。
1582年に信長が本能寺で亡くなると、父と共に秀吉に仕えるようになりました。
初陣は備中高松城攻めの冠山城の戦いで、中国地方の毛利氏方と戦いました。
1583年での賤ケ岳の戦いでも活躍し、河内国内に領地を得ます。
1587年には、九州平定の日向財部城攻めで活躍し、戦後には父の功績と合わせて豊前国中津に12万5千石が与えられたのですが、国人勢力の懐柔が困難でした。
中でも有力領主だった城井鎮房は、秀吉の出陣要請に息子とわずかな兵を送っていて、秀吉に疑念を抱かせていました。
城井に対して、秀吉は加増を伴って伊予国に移封するよう朱印状を出したのですが、城井が受け取りを拒否したため秀吉を怒らせてしまいました。
長政も、穏便に終わらせるのは困難と判断して城井を攻めますが、ゲリラ戦法に苦しめられましたが、各個撃破することで城井を下し、娘の鶴姫を人質として恭順します。
しかし、秀吉の承認を得ることができなかったため、城井一族を打ち滅ぼすことになります。
1588年に中津場へと城井鎮房を招き、家臣団と引き離して酒宴の席で誅殺して、家臣団や鎮房の父の長房なども殺害し、嫡男も暗殺して鶴姫は処刑して、城井一族をせん滅しました。
1589年に父が隠居して、長政が家督を継いで甲斐守に叙任しました。
1592年からは朝鮮に渡海し、多くの武功を挙げて1598年に帰国したのですが、秀吉は死去していて、石田三成たちとは対立することとなりました。
石田三成と対立したことで、長政は五大老の徳川家康に接近して家康の養女の栄姫を正室に迎えました。
既に蜂須賀正勝の娘である糸姫と結婚していたのですが、家康との接近を機に離別しています。
1600年には家康に従って会津征伐に参陣し、関ヶ原の戦いでも東軍として参戦します。
本川では石田三成の軍と激戦を繰り広げ、家老の島清興を討ち取ります。
また、調略によって親戚の平岡頼勝などを通じて、小早川秀秋や吉川広家などを寝返らせています。
1612年には上洛し、嫡男の忠秀に徳川秀忠から松平の名字を与えられます。
1614年の大坂冬の陣では忠秀が出陣しましたが、1615年の夏の陣では長政が出陣して豊臣方と戦いました。
1623年に、京都の黒田家の位牌がある報恩寺において、享年56で死去しました。
生前は嫡男である忠行の器量を心配して廃嫡も考えましたが、重臣に諫められて思いとどまっており、長政の後は忠行が継ぐこととなりました。
黒田長政のエピソード
軍師として有名な黒田官兵衛の息子である黒田長政は、自身も父譲りの策略家でした。
武将として大いに功績を上げていた長政には、どのようなエピソードがあるのでしょうか?
秀吉の死後、長政は家康に近づきます。
家康に近づいた理由は、石田三成との折り合いが悪くなっていたことです。
朝鮮出征で、長政の行動を誤解されるように軍目付が秀吉に送っていたことが明らかになっていたのです。
軍目付は三成と通じていたため、憤慨した長政は三成を恨むようになり、三成と対立していた家康の元に行ったのです。
家康は仲間を集める必要があったため、長政と好意的な付き合いをしていました。
関ヶ原の戦いでは、多くの武将が去就を定めることができず迷っていたため、家康は特に福島正則が裏切らないかを不安に思っていたのですが、長政は福島正則が裏切ることはないと断言して安心させ、さらに小早川秀秋などを懐柔して西軍を裏切らせることに成功しています。
家康からの信頼を得ることができた長政は、筑前国52万石を得ることとなりました。
福岡と名付けた長政は、福岡城を築城して居城にします。
長政が亡くなった後も、家康は長政に感謝し続けていたといわれています。
まとめ
父である名軍師の黒田官兵衛譲りの優れた戦略家であった長政は、秀吉の下で武勲を挙げて、秀吉の死後は家康の下で関ヶ原の戦いを勝利に導きました。
石田三成が余計なことをしなければ、戦に勝利していたのは西軍だったのかもしれません。
また、朝鮮出征で策略を活かして大いに武功を挙げています。
子どもの頃に処刑から逃れることができなければ、歴史は大きく変わっていたのではないでしょうか?