豊臣秀吉の政権下では、五大老と五奉行という役職がありました。
五奉行の一人である長束正家は、豊臣に最後まで仕え、関ヶ原の戦いでは西軍に加わったものの総大将とともに本戦への参加を妨害され、敗走後は騙されて無念のうちに切腹することとなってしまいました。
長束正家の生涯はどのようなものだったのか、紹介します。
長束正家の生涯
長束正家は、1562年に永口盛里の長男として生まれたといわれている人物です。
弟に、直吉と玄春がいます。
本姓は大蔵氏といい、丹波秀長に仕えた後1585年に秀吉の奉公衆になります。
丹波氏は豊臣家から大減封処分を受け、財政上の不正があったと糾弾されたものの、正家は帳簿を提出して証拠とし、不正はないと抵抗しました。
抵抗したことで不興を買うかと思われましたが、正家は豊臣氏の直参家臣に取り立てられます。
算術能力が高かったため、財政を担う役職について豊臣氏の蔵入地を管理し、太閤検地の実施にも関わりました。
兵糧奉行として、遠征の際は兵糧の輸送にも活躍していて、20万石の兵糧を輸送したり征伐地周辺の米を買い占めて兵糧攻めにしたりしています。
弟も豊臣の直参に取り立てられ、文禄・慶長の役では名護屋に在陣して兵糧奉行を務めるとともに、京都にいた秀吉との中継役も担っていました。
朝鮮で虎を狩って秀吉に送った亀井には、代筆令状を返信しています。
1586年に本田忠勝の妹である栄子を正室に迎えて、1589年に長男が誕生しました。
1590年に徳川秀忠が人質として上洛した際は、出迎えの任にあたり徳川家とも深い関係がありました。
1595年には近江水口城を拝領して、五奉行にも加わりました。
2年後には7万石が加増されており、寺への保護を行っています。
また、蒲生秀行が厳封されたことで浪人となった人物を召し抱えています。
秀吉が没した後は石田三成に与して、家康を打倒するための話し合いをしていたのですが、伏見城への入場を阻止することができず、会津征伐の中止も聞き入れてもらうことができませんでした。
1600年には三成とともに、毛利輝元を擁立して挙兵し、伏見城に攻め込んで家臣に内通させて落城させます。
伊勢の安濃津を攻略しましたが、少数の敵船団を家康の本隊と間違えて退却するという失態も犯しました。
関ヶ原の戦いでは、毛利秀元や吉川広家とともに布陣して、合戦前に浅野隊と応戦して池田輝政隊と銃撃戦を行ったのですが、広家が妨害したことで本戦には参加することができませんでした。
西軍退却後は水口城に向かっていましたが、直前で軍勢の攻勢を受けたために敗走しました。
敗走によって、末の弟が捕まって処刑されています。
後に、松田秀宣の活躍で水口城に入城できたのですが、寄せ手に本領を安堵すると言われて城から出たところを捕まってしまいます。
弟とともに、切腹をして奥村左馬助に介錯され、享年39歳で没します。
長束正家のエピソード
長束正家は、戦国武将の中では珍しく、戦働きではなく事務能力の高さを買われて出世しています。
正家の特徴的なエピソードについて、紹介します。
正家が秀吉に重宝されるきっかけとなったのは、恩がある丹波家が不正の疑いをかけられたことでした。
財政での不正があったといわれたときに、正家が活躍したのです。
正家は丹波家の財務管理を行っていたため、直筆の帳簿を見せて不正がないという証拠として提出しました。
武将の中では珍しく計算能力に優れていた点が、人材を集める秀吉に気に入られたのです。
また、正家の人物像がよくわかるエピソードとして、関ヶ原の戦いからの退却途中の逸話があります。
水口城へと戻る途中の正家は、道中に島津義弘隊と出会い、近隣の地理に不慣れだと思ったため家臣を案内役に付けたといわれています。
正家の非常に細かいところまで気が回る人物像がわかりやすいエピソードであり、義弘の部隊は無事に薩摩へと帰還できました。
しかし、正家は弟が捕らえられて処刑されていたのです。
正家には、少なくとも3人の男児がいました。
長男は妻の実家に匿われ、細川家の家臣として仕えています。
末の息子は、以前正家が保護した寺に入り、住職となって還誉岌閑と名乗ります。
隣には新たに栄照寺を建立し、両親の冥福を祈ります。
ところが、徳川家光は還誉岌閑が気にいったのか、頻繁に訪れるようになりました。
訪ねた際は、何か送ったり、一筆書いてあげたりしていました。
ちなみに、2番目の男児については正確な記録が残っていません。
まとめ
長束正家は、豊臣秀吉の下で財務管理の担当として働き、戦の際は勘定奉行として大量の食糧を手配して滞りなく届けるなど、管理としての非凡な才を発揮しています。
秀吉からの信頼も厚かったのですが、秀吉が亡くなってからはたびたび家康と対立しており、関ヶ原の戦いでも西軍に与しています。
しかし、総大将と同じく広家に邪魔され、本戦には加わることができませんでした。