藤原義懐は、第65代天皇である花山天皇の叔父で、花山天皇を支える役として急速に出世しました。
ですが、藤原兼家の謀略によって花山天皇が出家してしまったため、一夜にして権力を失ってしまったのです。
一夜にして権力を失った藤原義懐は、どのような生涯を送ったのでしょうか?
生涯とエピソードについて、紹介します。
藤原義懐の生涯
957年に生まれた藤原義懐は、972年に従五位下になりましたが、その年の11月に父が急死し、さらに974年には二人の兄が同日に病死してしまいました。
摂政だった父に代わって執務の座に就いたのは弟である藤原兼通だったため、藤原兼通の子息が次々と昇進していきます。
そのため、藤原義懐の役職はなかなか上がりませんでしたが、同じ母親から生まれた冷泉天皇女御の懐子が産んだ皇太子・師貞親王がいたので、母方の親戚として979年には春宮亮に任ぜられています。
984年に従四位上になり、その年の8月に師貞親王が先帝から譲位受けて花山天皇となると、藤原義懐は蔵人頭になりました。
その2か月後には正三位までになり、翌年には従二位・権中納言になるなど非常に速いスピードで昇進したのです。
そんな中、花山天皇女御である忯子が985年に亡くなりました。
ショックを受けた天皇は出家して供養をしたいと言い始めましたが、藤原義懐は一時的な気持ちであると見破り天皇に決意を変えるように促しました。
しかし、986年6月23日の深夜に天皇は宮中を出て突然出家してしまいます。
花山天皇がいなくなったことを知った藤原義懐は必死に居所を探しましたが、元慶寺で見つけたときには天皇はもう出家を済ませていたのです。
そこで、藤原義懐は自らの政治的な負けを悟り、その場で出家します。
出家後は、仏門の修行に費やし1008年7月に52歳の生涯を終えました。
藤原義懐のエピソード
花山天皇の叔父として藤原義懐は、政治を指導して統率するようになります。
花山天皇や藤原義懐、天皇の乳兄弟である藤原惟成という陣容が中心となって荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化や武装禁止令などの革新的な政策を行いました。
しかし、皇太子・懐仁親王の外祖父である藤原兼家が天皇の早期退位を願って、天皇や藤原義懐と対決の姿勢を示したのです。
天皇が藤原道兼に唆されて宮中を出て出家してしまいますが、これは藤原道兼の父である藤原兼家の陰謀だったと伝えられています。
まとめ
藤原義懐は、早くに父と2人の兄を亡くしました。
亡くなった父の代わりに弟である藤原兼通が政務の座に就いたので、藤原義懐はなかなか出世しませんでした。
ですが、同母姉の懐子が産んだ花山天皇の数少ない母方の親戚として、急速に出世していきます。
しかし、藤原兼家の策略によって、天皇が出家してしまい藤原義懐は一夜で権力を失ってしまったのです。
その後、僧侶となった藤原義懐は残りの人生を仏門の修行に費やしました。