戦国乱世の頂点に立った織田信長と、天下を統一した豊臣秀吉の間に立って数奇な運命をたどったのが羽柴秀勝です。
信長の四男として生まれて秀吉の養子となった秀勝は、名門の血筋と天下人の後継者という輝かしい切符を手にしながらもわずか18歳で病に倒れたのです。
秀勝の短い生涯の足跡を、振り返ってみましょう。
若き総大将
秀勝は永禄11年(1568年)に織田信長の四男として誕生し、於次丸(おつぎまる)という幼名で呼ばれたのです。 1579年頃、秀勝は当時まだ実子に恵まれなかった信長の筆頭重臣だった羽柴秀吉の養子へと迎えられました。
秀吉にとって主君である信長の血を引く秀勝は、羽柴家の権威を高める最高の存在となっていたのです。
秀吉は秀勝を実の子のように寵愛し、名前の秀勝の「秀」は自身の名前からとってつけたといわれています。
1582年に日本史を揺るがす大事件となった本能寺の変が勃発し、秀勝の実父である信長が急逝したのです。
秀吉は毛利軍と対峙して備中高松城を包囲している最中でしたが、光秀から毛利への急使を捕えて事態を知りました。
呆然とした秀吉ですが、翌日には毛利氏との和睦をまとめて高松城城主の清水宗治を自刃させ休戦にしたうえで6日には全軍を撤退させたのです。
大軍を引き連れて7日で約230kmを踏破するという驚異の移動速度は「中国大返し」といわれ、12日には富田(大阪府高槻市)に着陣しました。
翌13日には山崎へと到着して山崎の戦いが起こって光秀を討ったのですが、秀吉はわずか15歳の秀勝を信長の「喪主」および軍の「総大将」に据えたのです。
自らの大義名分を天下に示した秀吉はその後の清洲会議を経て、秀勝に明智光秀の旧領である丹波国亀山城(約29万石)を与えます。
名実ともに若き大名となった秀勝は、秀吉の後継者候補の筆頭として輝かしい未来を約束されているかに見えたでしょう。
早すぎる最期
秀勝は秀吉の天下取りの主要な合戦にも従軍していて、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いにも出陣して羽柴軍の一翼を担いました。 1584年には毛利輝元の養女と婚姻の儀を挙げ、1585年には従三位・左近衛権少将となってほどなく正三位・権中納言になったのです。
しかし同年に四国征伐の最中で発病した秀勝は、療養の甲斐なく同年12月に丹波亀山城にて病死してしまい、まだ享年18というあまりにも短い生涯を終えました。
まとめ
羽柴秀勝は織田信長の四男として誕生したのですが、11歳頃には当時子どもがいなかった羽柴秀吉の養子として迎えられ、信長を敬愛する秀吉に寵愛されて育ったのです。 本能寺の変が起こったときは秀勝を喪主、並びに総大将とすることで秀吉の大義名分を天下に示すこととなり、明智光秀の旧領の丹波国亀山城を与えられます。 しかし、四国征伐の最中に発症した秀勝はそのまま病死してしまい、わずか18年の生涯を閉じたのです。


