戦国時代、一介の足軽から天下人へと駆け上がった豊臣秀吉驚異的な大出世は、彼の親族たちの運命をも激変させました。
秀吉の姉の夫で後に若き関白となる豊臣秀次の実父の三好吉房(みよし よしふさ)も、大きく運命が変わった一人です。
豊臣家の栄華の頂点から絶望のどん底までを経験した生涯を、たどってみましょう。
農民から名門の当主へと
三好吉房は天文3年(1534年)に尾張国で生まれ、当時は弥助(やすけ)などと名乗って秀吉の姉・とも(日秀尼)と結婚して平穏に暮らしていたのです。 二人の間には、長男の秀次、次男の秀勝、三男の秀保が生まれ、秀吉が織田信長のもとで出世を遂げると吉房も一族の重要な控えとして重用されるようになります。
さらに秀吉が四国へ勢力を伸ばすと、四国の名門三好康長の養子に長男・秀次が迎えられた縁から吉房自身も「三好」の名字を名乗り歴史の表舞台へと引っ張り出されたのです。
秀吉が天下を統一すると吉房の地位は跳ね上がり、1592年に長男の秀次が関白に就任して豊臣家の家督を継ぐと実父の吉房は秀次を補佐する宿老の筆頭格となりました。
吉房は尾張国犬山城主となり、のちには尾張・美濃国内で10万石もの大領を与えられて官位も従三位・権中納言にまで登り詰め、「一路(いちろ)」と号したのです。
子宝にも恵まれず親族の少なかった秀吉にとって、実の姉と実直な義兄である吉房の存在は、政権の基盤を固めるための重要な生命線となりました。
秀次の死と流罪の苦難
しかし、1593年に秀吉の嫡男・秀頼が誕生したことで豊臣家を激震が襲い、1595年に関白・秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で切腹に追い込まれたのです。 悲劇は秀次一人の身に留まらず、三条河原で秀次の妻妾や子供たちが惨殺されて実父である吉房も連座して全領地を没収されました。
吉房は讃岐国へ流罪となり、流刑地で我が子や孫たちの非業の死を嘆き悲しむことになったのです。
さらに次男・秀勝はすでに朝鮮の役で病死して三男・秀保も急死していたため、吉房は一瞬にしてすべての息子を失う絶望を味わいました。
関ヶ原の戦いを経て徳川の世が近づくと、吉房は罪を許されて京都へと戻り出家していた妻のとも(日秀尼)と再会することができたのでした。
二人は秀次ら一族の菩提を弔うために京都に瑞泉寺を建立し、1612年に吉房は波乱に満ちた79年の生涯を閉じます。
農民から大名へ、そして流罪人へと秀吉という巨星の引力によって激しく翻弄された人生でした。
しかし、豊臣家の栄枯盛衰を見届けて最後に妻とともに子供たちの魂に寄り添って生きた晩年は、権力闘争から解放された一人の父親としての静かな強さに満ちていました。
まとめ
天下人の義兄となって名門三好の名字を名乗り歴史の表舞台へと引っ張り出された三好吉房は、実子が関白となって豊臣家の家督を継いだことで宿老の筆頭格になったのです。 犬山城主となった吉房は秀吉の政権基盤の重要な生命線でしたが、秀吉の嫡男の秀頼が誕生したことで秀次が切腹となり、3人の息子をすべて失いました。 自身も讃岐国へと流刑になりましたが、家康の世で京都へと戻って妻と再会し静かに人生を閉じたのです。


