竹田城の歴史と特徴

歴史

竹田城は、現在の兵庫県朝来市にあった、天空の城や虎臥城とも呼ばれる山城です。
400年前に廃城となったものの、石垣が当時に近い状態でそのまま残されているため日本屈指の規模を誇る現存する山城となっています。
竹田城には、どのようなことが起こっていたのでしょうか?
その歴史と、特徴について解説します。

竹田城の歴史

竹田城の築城年数は正確な都市が伝わっていないのですが、1441年から1443年の嘉吉年間に武田後に安井ノ城が築かれたという記録があります。
この安井ノ城が、竹田城のことを指しています。

このことが記された和田上道氏日記以外に築城の史料はなく、史跡・竹田城では嘉吉三年に山名持豊が築いて初代城主は太田垣光景が任じられたという口碑を残すのみと、伝承について紹介しています。

このころ、但馬守護の山名氏と播磨守護の赤松氏の間で軍事的衝突がたびたび起こっており、竹田城はその中で播磨と田島の国境を守る拠点となっていて、播磨の平定に向けた出撃の拠点としても重要な役割を持っていました。

但馬は、1467年に細川勝元と山名宗全の争いが一因となり、応仁の乱が起こると細川氏と山名氏との争いの場所となりました。
細川軍の内藤軍が但馬に進攻しようとした際、竹田城の留守を預かる太田垣軍が出軍して焼くので合戦となり、内藤軍の大将2名を討ち取りました。

その後、応仁の乱が終息しても山名氏と赤松氏の抗争は続き、一時は山名氏が優勢となり播磨を占領したこともありましたが、最終的には敗戦となって山名氏の権威は失墜し、太田垣氏は山名氏の出軍要請にも従わなくなっていて赤松氏は結束して山名軍を追放します。

戦国時代になり、織田信長と毛利氏との関係が悪化した際、信長は羽柴秀吉を播磨に派遣します。
姫路城に入城した秀吉は1カ月で播磨の諸将から人質を取って起伏させることに成功し、そこから二手に分かれて一方は秀吉が率いて上月城の攻城、もう一方は秀吉の弟の秀長が3000の兵を率いて但馬に進軍します。

秀長隊は真弓峠から侵攻し、岩洲城を攻城すると今度は竹田城を攻城します。
竹田城は3日間戦闘が続き、攻め落として秀長が城代になったとされています。
そして1579年に信長の命で明智光秀支援のために丹波へと攻め入りますが、その後竹田城に戻らず播磨に引き上げて毛利方の太田垣輝延が入城しています。

1580年に再び秀長が但馬攻めの命を受けて侵攻すると、竹田城と有子山城はさほど抵抗なく降伏します。
これによって、太田垣氏による支配は完全に終わりを迎えました。

秀長は有子山城の城主となり、竹田城の城主は秀長の配下の武将である桑山重晴が命じられました。
その後、重晴は転封となり城主は秀吉に投稿した斎村政広が務めることになります。

関ケ原の戦いでは西軍に属した政広ですが、西軍は敗戦となってしまいます。
その後東軍の亀居の誘いに乗って鳥取城攻めに参加して落城させるも、城下で起こった大火の責任を問われ徳川家康に切腹を命じられます。
竹田城には山名豊国が入城したものの、江戸幕府の方針で廃城となりました。

昭和になり、1943年には国の史跡に指定されました。
2006年には日本100名城の56番に選定され、歴史好きの人の間で知名度が上昇しました。

その公式ガイドブックにおいて、アマチュア写真家の吉田利栄の撮影した雲海に浮かぶ竹田城跡の写真が大きく評価され、「天空の城竹田城跡」ブームが起こります。
そして訪問客が大きく増えたことで、朝来市議会では2013年に整備・管理のために入城料を徴収する条例が可決されました。

竹田城の特徴

竹田城の特徴と言えば、やはり天空の城と呼ばれる雲海に浮かぶ様子でしょう。
標高353.7メートルの古城山の山頂に築かれていて、雲海は秋から冬、特に9月から11月
にかけての日の出前から午前8時頃の間に発生することが多いと言われています。

城跡から眺める風景が有名ですが、それ以外にも城の南東にある立雲峡、城の北西にある藤和峠から雲海に浮かぶ城跡を眺めることができるため、多くの人が訪れます。
また、雲海には発生しやすい条件がいくつかあります。

雲海が発生する目安となるのは、まず日本海に高気圧の中心があってよく晴れていて朝方と日中で気温が大きく違い、風はあまりない状態であることです。
但馬南部地方の天気予報で、濃霧注意報が出ているかどうかが参考になります。

また、現在は本丸と天守台の土台だった石垣だけが残っているのですが、野面積みにされていて南千畳と北千畳で異なる様子を見せています。
縄張の形がトラの伏せた形のように見えるため、虎臥城という別名があります。

まとめ

雲海に浮かぶ美しい情景が有名な天空の城である竹田城は、多くのドラマや映画のロケ地にもなっていて、歴史ファンだけではなく作品のファンも多く訪れます。
人気が急上昇して訪問客も急増したことで、登山道の整備を行ったものの、国に届け出を出していなかったため文化財保護法に違反していると指摘され工事が中止されています。
歴史的に重要な位置にあった竹田城は、廃城になってからも多くの人が訪れています。

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