徳川信康に嫁いだ織田信長の娘「五徳」(徳姫)

歴史

徳川信康が自刃するに至った経緯には、妻である五徳も関係しています。

嫁姑関係の悪化や、夫と不仲だったことが考えられていますが、実際のところはどうだったのでしょうか?

また事件の後、五徳はどのような人生を送ったのでしょうか?

今回は、五徳の生涯とエピソードについてお話しします。

五徳の生涯

五徳は、1559年に織田信長と側室の生駒吉乃の長女として生まれます。

五徳が生まれてから数年経った1563年、この頃に織田信長は徳川家康に対し、自分の娘を嫁入れさせる約束をします。

本人はまだ幼く、気が早い約束だと思われますが、両者の関係を強固にする上で、必要な約束だったのでしょう。

それから月日が流れた1567年、五徳は徳川家康の嫡男、徳川信康に嫁ぐことになりました。

10歳にも満たない者同士が夫婦となり、親同士の約束を実現させたのです。

その後成長し1576年に登久姫、1577年に熊姫と、五徳は2人の娘を出産しましたが男の子は誕生しませんでした。

特に姑であった築山殿は何とか嫡男を産ませるため、夫に側室を迎えさせたことで、嫁姑関係が悪化したと言われています。

同時に夫婦仲も拗れてしまい、政略結婚の相手とはいえ良好な関係を築くことが困難になっていきます。

このように嫡男が生まれなかったことで、五徳が徐々に肩身の狭い思いをしてしまいます。

そして1579年に父織田信長に対し、徳川信康自刃事件のきっかけとなる十二ヶ条の訴状を送ります。

十二ヶ条の訴状とは徳川家康の正室の築山殿と徳川信康の罪状を訴えた手紙であり、それを読んだ織田信長は安土城にいた酒井忠次を通して徳川信康の殺害を命じました。

事件後は徳川家康に見送られ岡崎城を出立し、故郷の安土へ戻ることになります。

しかし、自分が生んだ2人の娘は徳川家康のところに残したため、親子で帰還することは叶いませんでした。

1582年の本能寺の変後、織田信長が亡くなると五徳は次兄の織田信雄に保護されます。

この時、豊臣秀吉との関係において居住地が移り変わることがあり、落ち着かない時期もありました。

関ケ原の戦い以降は、京都で目立たずに静かな生活を送るようになります。

1636年に五徳は、76歳で生涯を閉じました。

五徳のエピソード

五徳が織田信長に十二ヶ条の訴状を送った背景には、夫の徳川信康との不仲も関係しています。

不仲になった理由は、幾つかあります。

先述のように側室を迎えたことで、徳川信康と一緒にいる時間が減ってしまったということも考えられるでしょう。

側室を選定したのは築山殿ですが、幼い頃から夫婦だった五徳のことを考えれば、側室と関係を持たないこともできたはずです。

確かに嫡男の問題はありますが、物理的な距離が離れたことで、精神的な距離も離れてしまったのかもしれません。

五徳はこの時まだ20歳にも満たなかったため、若さもり気持ちに折り合いがつけられなかったのでないでしょうか。

また、夫婦仲に影響したのは、当事者同士の関係性だけではありません。

五徳が結婚する際に一緒に連れてきた侍女を、徳川信康が惨殺したのでないかというエピソードもあります。

五徳にとって侍女は、最も近しい存在になります。

ちょうど側室が迎えられ、五徳のところに顔を出す機会が少なくなった徳川信康に対し、侍女は疎遠になったことで主人が悲しんでいることを伝えたそうです。

話を聞いた徳川信康は怒り狂い、侍女を切り捨ててしまったのです。

そして恐ろしいことに、切り捨てた後侍女の口を引き裂いたそうです。

このエピソードが事実なのかどうか、本当のところは分かりません。

ですが、身近にいた侍女がこのような殺され方をしたのはショックな出来事になるはずです。

何より惨殺が行われたのは、五徳の目の前でした。

事情がどうあれ、目の前で起こった出来事をなかったことにはできません。

五徳の徳川信康に対する信頼が失われていくのは、明白でしょう。

幼い時期から始まった結婚生活は、波乱に富んでいました。

結婚生活の影響もあるのか、徳川信康自刃事件の後、五徳は再婚することはありませんでした。

夫婦仲だけでなく、夫の親族との折り合いが悪くなったことで、もしかすると結婚に対し良いイメージが持てなくなったのかもしれません。

亡くなる時まで京都で静かに暮らしていたことも、五徳からすると悠々自適な生活が実現できたと言えるのでないでしょうか。

とはいえ、自分の置かれた立場に対し、我慢し、泣き寝入りするような女性でなかったことは推測できます。

立場や手段は違っていても、強い女性として活躍した1人だと考えることもできます。

性格的な面もあるかもしれませんが、そうでなければ織田信長に姑と夫を訴える手紙を送ったりはしません。

五徳も、時代に翻弄された人物です。

もし、嫡男が生まれたり徳川信康と不仲でなかったりしたならば、辛い思いをせず、政略結婚であっても幸せな結婚生活が送れたかもしれません。

まとめ

今回は、五徳の生涯とエピソードについてお話ししました。

幼少期の約束により、徳川信康と結婚した五徳は子どもを産んだものの、嫡男を産むことが叶いませんでした。

それにより姑や夫との関係が悪化し、頭を悩ますことになります。

晩年京都で独身生活を堪能していたのは、もしかすると若い頃の結婚生活で苦しい思いをした反動なのかもしれません。

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