天下人となった徳川家康ですが、常に強い人物だったわけではありません。
弱気な行動を取り、家臣たちを困らせていたエピソードも複数あります。
その中には一度自害を決意したものもあり、それを止めたのが登譽上人です。
今回は、徳川家康の恩人とも言える登譽上人の生涯とエピソードをご紹介します。
登譽上人の生涯
登譽上人の生涯の詳細は不明ですが、戦国時代の僧侶だったことは確かです。
浄土宗成道山大樹寺の第13代目住職として勤めていましたが、徳川家康と関わることで注目を集めます。
ここでは、徳川家康と関わりのあった時期についてご紹介します。
そもそも徳川家康が登譽上人の大樹寺に来た理由は、敵兵から逃げるためです。
ここで言うところの敵兵とは、織田信長の兵になります。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、徳川家康に使者が来ました。
その使者は、織田信長側の武将の水野信元が遣わした者で、徳川家康が守っていた大高城に今川義元戦死の旨を伝えます。
この時、徳川家康は今川氏の支配下にあったため、中心人物が戦死したとなると、次に織田軍がどう動くのか容易に想像がつきます。
織田軍が来る前に撤退するよう勧めたのですが、徳川家康はすぐに撤退せず、敗戦を確認するための物見をしてから退城したのです。
そして岡崎城に戻ろうとしたのですが、城内に今川氏の残兵がいたため、一旦大樹寺に入ったそうです。
一見すると体制を立て直すなどの目的で大樹寺に入ったように思えますが、実際は違いました。
今川氏が織田信長に敗れてしまったことで、自分の将来がどうなるのか不安になり、徳川家康は精神的に追い詰められていたのです。
自分たちを今まで支配していた存在が失われてしまったことで、松平氏の今後が不安定になるのは間違いありません。
そのため先祖代々の墓がある大樹寺へ逃げ込み、自分も自害しようと考えていました。
そこに登場したのが、登譽上人です。
自害を止めること、先祖の松平親忠が「大樹」を寺号にして大樹寺を創設したことを語り、心が折れかけていた徳川家康を励ましたのです。
徳川家康が独立し、武将として確固たる信念を持てたことには、登譽上人との出会いがあったからでないでしょうか。
徳川家康にとって、忘れられない人物の1人であるはずです。
登譽上人のエピソード
登譽上人は、徳川家康の先祖と大樹寺のルーツの話の他に、浄土宗の言葉を伝えたそうです。
それが、「厭離穢土欣求浄土」です。
この言葉は、「穢れたこの世を離れ、浄土に往って生まれることを願い求める」という意味です。
これを登譽上人は幟に書き、徳川家康に与えたそうです。
言葉の意味をもう少し分かりやすく見てみましょう。
この世を離れ浄土に往くというのは、言葉だけを見ると「穢れの多い土地である現世から離れたい」という悲観的な印象にも捉えられてしまいます。
けれども、徳川家康に伝えたかった意味は、別にあります。
「今生きているこの世を、浄土となるよう変えるために闘うべき」という、揺るぎない姿勢を説いたのです。
実際、戦国の世は個人の野心により、強者が入り乱れている状態です。
徳川家康も本人が望んでいるかどうかに関わらず、一部将として生きざるを得ませんでした。
敵兵から逃げている状況でなかった場合でも、不安に苛まれてしまいます。
とりわけ徳川家康は、精神的に弱いことが分かるエピソードがいくつかありますので、困難にぶつかった時、1人で乗り越える力量が不足していたのでしょう。
そこに、登譽上人からこの世を変えるために闘うのだと諭された時、現状を変えるには行動しかないと徳川家康は気づかされたのです。
そのためには、まず生きるしかありません。
登譽上人がこの時いなかったならば、徳川家康は誰にも止められることなく、命を落としていたことでしょう。
そうなると、天下人となって世を治めたという、まさに戦国の世を変えた歴史はあり得ませんでした。
登譽上人からの言葉は、徳川家康の馬印に用いられることになります。
馬印は、戦場での自分の位置を示したり、軍旗として使用されたりします。
そして馬印は、味方の士気にも関わる重要な装飾物でした。
味方を鼓舞する意味で、「厭離穢土欣求浄土」の言葉を立てたとなると、徳川家康も馬印を見るたびに大樹寺での出来事を思い出すでしょう。
徳川家康が天下人なるまで、何度も心が折れそうになったことはあったはずです。
それでも戦い続けたのは、「厭離穢土欣求浄土」の言葉を心のよりどころにしていたからだ、と考えるとどうでしょう。
また、この言葉は三河一向一揆の時に授けられたと考える説もあります。
徳川家康に味方した際、「厭離穢土欣求浄土」の言葉を登譽上人が白旗に墨で書き渡したそうです。
三河一向一揆は、徳川家康を苦しめた出来事の1つになります。
どちらにしても勝利を収められたのは、もしかするとこの言葉のおかげかもしれません。
まとめ
今回は、登譽上人の生涯とエピソードについてご紹介しました。
生涯は不明ですが、徳川家康が自害するのを諭しやめさせ、浄土宗の言葉を伝えました。
「厭離穢土欣求浄土」は、この出来事以降徳川家康の傍にあり、強敵との戦いにおいて心の支えになっていたことでしょう。
登譽上人との出会いは、精神的に弱った徳川家康が立ち直るきっかけになったのです。