家柄と才能に優れていた「藤原公任」

歴史

平安時代に栄華を極めたのは、藤原兼家やその一族だけではありません。

藤原公任とその家族も、栄華を極めたという点では負けていないのです。

何より驚くのは、家族が高貴なる身分の人たちであるということです。

今回は、華麗なる一族に生まれた藤原公任の生涯とエピソードについてご紹介します。

藤原公任の生涯

藤原公任は、関白・太政大臣の藤原頼忠と厳子女王の長男として生まれます。

祖父と父は関白を務めており、母は醍醐天皇の孫、自身の妻は村上天皇の孫という、家族は高貴なる身分の人物ばかりです。

藤原公任の清涼殿での元服時に円融天皇が出ていたことや、正五位下に叙されるといった異例の対応がなされたことで、常に周囲から注目される存在にありました。

円融朝から花山朝において、藤原公任は順調に昇進していきます。

特に姉の遵子は円融天皇の皇后になったため、一族が栄え、どんどん昇進し続けていきました。

しかしながら、父藤原頼忠が関白を辞任すると、昇進し栄華を極めていた状況が一変します。

一条天皇が即位し、藤原兼家が摂政になったことで、政治の実権が自身の小野宮流から九条流に変わってしまいます。

その影響で藤原公任は、藤原道長に位階を越されてしまうのです。

これまで誰よりも位階が高いことを誇りにしていた藤原公任は、下に見ていた相手に逆転されてしまい、とても悔しかったことでしょう。

989年には蔵人頭に任ぜられますが、昇進は停滞してしまいます。

特に、他に蔵人頭を務めた人物が次々と参議になっていく中、自分は昇進しないことから不満を溜めていたようです。

国政を執り行う役割が藤原道長に移ると、藤原公任は約14年ぶりに昇進し従三位になります。

後に長女を藤原教通に嫁がせ周囲に自慢するようになりますが、1021年頃になると昇進の限界が明白になります。

1023年に次女、1024年に長女が亡くなると、精神的に深手を負ってしまい、後に官職を辞任し、1026年に出家を果たします。

1040年の年末に瘡湿にかかり10日ほど患うと、藤原公任は1041年に76歳で薨じました。

藤原公任の才能によって昇進を果たした面もありますが、政権が変わることで人生が明らかに変わったことを誰よりも痛感した人物になります。

藤原公任のエピソード

藤原公任は家柄が優れているだけでなく、多くの才能に溢れていました。

それが分かるエピソードに、「三舟の才」があります。

大堰川に藤原道長が漢詩、和歌、管絃の3つの舟を出し、それぞれの舟に各分野の名人を乗せた際、どの舟に乗るのかを藤原公任に尋ねました。

この時藤原公任は和歌の舟を選び、「小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき」と詠んだそうです。

その和歌は称賛されたのですが、話はここで終わりません。

藤原公任はその後、和歌でなく漢詩の舟を選んでいればもっと名声が得られたのでないかと悔やんだそうです。

確かに藤原公任は文化面で優れた人物であり、多くの詩歌集を後世に残しています。

どの分野でも活躍できる、自信があることが分かるエピソードになります。

ところで、周囲の人を困らせたエピソードも残っています。

藤原公任は高い身分を持ち、自信家である一方で、思うような昇進がなされないと仕事をボイコットすることが度々ありました。

そのため、一緒に働いている人からすると、駄々を捏ねている子どものような人物だと思われていたかもしれません。

藤原公任は、幼少期から特別な存在として見られていました。

その理由の1つに元服が清涼殿で行われたことが挙げられますが、ここで実施されるということで皇族と同じように見なされたのです。

その他にも、父が関白であったことから、自分も昇進し政界を牛耳る存在になると夢見ていたのでしょう。

ところが現実は厳しく、他の貴族に位階を越されてしまい、昇進が滞ってしまうことが多々ありました。

自分の才能と実際の位階に納得いかないという藤原公任の気持ちも、全く分からないわけではありません。

平安貴族がお高い人物だというイメージがある一方で、藤原公任を見ていると人間らしさを感じることもできます。

藤原公任は最終的に四納言として、藤原道長を支えるポジションに就きます。

かつてライバル視していた相手をサポートする役割に回るのは、癪に思うでしょう。

しかし、藤原道長に近づいていなければ、もっと昇進から遠ざかっていた可能性もあります。

媚びるという表現は正確ではありませんが、身の置き方が上手くできていたのでないでしょうか。

高い地位に就こうとするほど、人脈など別の要素も考慮して動かなければなりません。

才能だけで評価されなかったというのが、藤原公任の気の毒なところです。

もし、藤原公任が権力争いの激しい時代に生まれていなかったらどうだったでしょう。

藤原兼家や藤原道長の存在がなければ、もしかすると思うような昇進が望めていたかもしれません。

プライドの高い人物ですが、悩みながら生きていたことに変わりありません。

まとめ

今回は、藤原公任の生涯とエピソードについてご紹介しました。

華麗なる一族に生まれた藤原公任は、幼少期から将来を期待されて育ちました。

しかし現実は厳しく、昇進が思うようにいかず、思い描いていた人生と違うと感じたこともあったでしょう。

プライドが高い一方で、文化人として残した功績もあるため、才能に恵まれた人物であることは間違いありません。

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