関ケ原の戦いに参加しなかった「増田長盛」

歴史


豊臣政権を担った五奉行は、それぞれ豊臣秀吉と厚い信頼関係がありました。
増田長盛もその1人で、文武の両面から豊臣秀吉を支えた人物になります。
しかしながら、関ケ原の戦いに参加しなかったことで、戦だけでなく豊臣家の命運を左右してしまいます。
今回は、増田長盛の生涯とエピソードをご紹介しましょう。

増田長盛の生涯

増田長盛は1545年に生まれますが、出生に関して不明点が多く、出生地も尾張国中島郡増田村と近江国浅井郡益田郷の2つの説があります。
そんな増田長盛は、28歳の時、織田信長の家臣時代の豊臣秀吉に仕えていたそうです。
そこから、中国攻めを始めとして、小牧・長久手の戦いなど多くの戦に参加しました。

特に小牧・長久手の戦いでは、文官としてだけでなく、武将としても活躍したことから、従五位下・右衛門尉に叙任されています。
さらに戦場での活躍が評価された結果、朝鮮出兵にも参加し、関東の大名が結集した軍勢を率いて漢城まで進軍する成果を出しました。

1595年には、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が亡くなると、大和国郡山城を与えられ、郡山城主となります。
同時に、豊臣秀吉の直轄領の代官も兼ねるようになり、欠かせない存在になっていきます。
豊臣秀吉の晩年には五奉行に命じられ、幼い豊臣秀頼を支えながら政権を担っていくことが期待されたのです。

豊臣秀吉の没後の1598年、増田長盛は石田三成の反徳川家康派の謀議に参加します。
これにより増田長盛は反徳川家康派の立場として認識されるのですが、大谷吉嗣や石田三成が謀議した日に徳川家康に謀議の趣旨を密告するのです。
つまり、徳川家康に反対派の情報は漏れていたのです。

増田長盛は、関ケ原の戦いの前哨戦である伏見城攻めに自ら参加し、落城に導きましたが、関ケ原の戦いに参加はしませんでした。
この時、毛利輝元と共に大坂城守備部隊として駐屯しており、戦で西軍に貢献することはありませんでした。
終戦後は徳川家康に出家し謝罪をしたものの、許されず改易処分となり、高野山に追放されます。

しかし、1615年の大坂夏の陣で、尾張藩主の徳川義直に仕えていた嫡男の増田盛次が出奔、豊臣家に与し、徳川軍と相打ちにより討死してしまうのです。
戦後、嫡男の行動の責任を問われた増田長盛は、自害を命じられ、それに従いました。

増田長盛のエピソード

増田長盛は西軍につきながらも、徳川家康に情報を流していたため、表裏者と言えます。
ところで、どうしてそのような行動をしたのでしょうか。
それには、石田三成の行動が関係しています。

先述の通り、豊臣秀吉の没後は反徳川家康派の謀議に参加し、豊臣秀頼を支えるために行動していきます。
しかし、石田三成が相談もなしに、独断で行動してしまうことがあったようです。
石田三成の行動には、同じ豊臣秀吉の家臣たちも思うところが多々ありました。

増田長盛も石田三成のやり方に対し思うところがあり、次第に敬遠していくようになったようです。
生前、豊臣秀吉は家臣たちがバラバラになってしまうのを危惧していました。
元々敵対していた者や、才能が認められて家臣となった者がいる集団だったため、まとまっていたのは豊臣秀吉がいたからです。

そして、増田長盛の行動は情報を流していただけではありません。
東軍が勝った時のことを見据えて、保身工作を行っていました。
石田三成から資金援助の要請を受けた際に渋ることで、積極的に西軍を支援していないことをアピールしようとしたのです。

また、関ケ原の戦いで実戦に参加せず、大坂城を守っていたのは、大坂城の様子を徳川家康に伝えていたからとされています。
このような行動もあってか、関ケ原の戦いの後、改易処分になったものの、命は助けられたのです。
ここまでの増田長盛の行動を見ると、豊臣家を裏切ったと考えてしまいます。

ですが、1614年に豊臣方との和睦仲介を徳川家康に依頼された際、増田長盛はそれを断っています。
これまでの経緯から、徳川家康に協力すると思われましたが、増田長盛が一番大切にしていたのは豊臣家だったのです。
それにも関わらず、徳川家康から依頼されたのはスパイのようなことですから、主家を裏切るようなことはできなかったのでないでしょうか。

増田盛次が出奔し豊臣方についた際も事前に相談を受けており、理解した上で送り出したそうです。

そうなると、増田長盛の行動は、全て豊臣家のためのものだったと考えることができるでしょう。
徳川家康に情報を流したのは、家臣同士の不和からもたらされたもので、もしかすると豊臣家自体を裏切ろうと思っていなかったかもしれません。

豊臣秀吉を様々な面で支えてきた増田長盛ですが、豊臣家を裏切ることなく、最期は自害の命を受け入れました。
最期まで豊臣家を思う気持ちは、変わらなかったのです。

まとめ

今回は、増田長盛の生涯とエピソードをご紹介しました。
増田長盛は、織田信長の家臣だった時の豊臣秀吉に仕えており、文官、武将として活躍します。
しかし、徳川家康に情報を流すなど、豊臣秀吉の没後は仲間を裏切るような行為をしてしまいます。
ですが、忠誠心が徳川家康に移ったわけでなく、最期まで豊臣家のために行動していたことから、自害を命じられても動じなかったことでしょう。

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