豊臣政権の実務を担った5人のことを「五奉行」と言いますが、筆頭として重用されていたのは浅野長政でした。
最初は織田信長の家臣として仕えていましたが、養子に出たことで人生が大きく変わります。
しかしながら、晩年はこれまでの評価が一変する事態に陥ります。
今回は、浅野長政の生涯とエピソードをご紹介します。
浅野長政の生涯
浅野長政は、1547年に宮後城主の安井重継の長男として生まれますが、叔父の浅野長勝に男子がいなかったため、娘のややの婿養子として迎えられます。
浅野長勝は織田信長に仕えていたため、家督を継いだ後、浅野長政は織田信長の家臣だったのです。
しかし、豊臣秀吉のもとに浅野長勝の娘の寧々が嫁いだことで、浅野長政と姻戚関係となったことから、織田信長の命で豊臣秀吉の与力になるように命じられます。
これが、豊臣秀吉と接点を持つ大きなきっかけとなります。
織田信長の没後に勃発した賤ヶ岳の戦いで、浅野長政は豊臣秀吉の勝利に貢献し、1584年に京都奉行職になりました。
そして諸大名から没収した金銀山の管理を任されるくらい、内政においても重要な存在となっていきます。
朝鮮出兵時にも活躍しており、後には豊臣秀吉と東国大名の取次役を命じられるほどだったため、単に姻戚関係にあっただけでなく、実力も買われていたに違いありません。
ですが、1599年に浅野長政は家督を長男の浅野幸長に譲ることになります。
実は、徳川家康から暗殺の嫌疑をかけられたため、前田利長らと共に謹慎することとなったからです。
このような経緯があり家督を譲り、浅野長政は武蔵国府中に隠居する形で表舞台から去りました。
ところが、浅井長政は表舞台に再び登場します。
関ケ原の戦いが勃発した時、東軍として参戦し、長男と共に勝利に貢献したのです。
関ケ原の戦いで功を挙げたことから、浅井長政には徳川家康から隠居料として常陸国真壁が与えられ、真壁藩を立藩し初代藩主となります。
江戸幕府の成立後は徳川家康に近侍として仕え、1611年に亡くなりました。
浅野長政のエピソード
浅野長政は、太閤検地成功の立役者でしたが、豊臣秀吉から信頼されていたことが分かるエピソードがあります。
それは、小田原征伐時にあります。
小田原征伐の際、豊臣秀吉は徳川家康の駿府城に宿泊する予定だったのですが、石田三成と浅野長政の間でちょっとしたトラブルが起こりました。
それは、駿府城に滞在して問題ないのかということです。
石田三成は、徳川家康は北条氏直の岳父であることから、内通している可能性があると疑っている旨を話したのです。
確かに、娘を嫁がせていたこと、加えて今川家での人質時代を経験した北条氏規がいたことから、その可能性は否定できません。
ですが、浅野長政は豊臣秀吉に対し、「徳川家康がそのようなことをする人でない。」と、はっきり言ったのです。
豊臣秀吉は、どちらの発言を受け入れたのかというと、浅野長政の発言でした。
判断を間違えると、豊臣秀吉の命はありません。
浅野長政の発言を信じ、駿府城に入城したところ、徳川家康から手厚いもてなしを受けており、恐れていた事態になることはありませんでした。
ここまで信頼されているとなると、五奉行に選ばれるのも当然のことでしょう。
ところで、徳川家康との関係はどうだったのでしょうか。
徳川家康が五大老の筆頭であったため、仕事上関わる機会があり、お互い親しい関係にありました。
共に囲碁を親しんだ間柄でもあり、浅野長政の死後に徳川家康は囲碁を辞めてしまったエピソードがあるくらいです。
そんな関係性の2人だったため、浅野長政に徳川家康の暗殺の嫌疑がかけられた時は動揺したことでしょう。
浅野長政が暗殺を考えていたかどうか、本当のところは分かりません。
しかし、前述の関係性から考えると、暗殺しようとしていたとは考えにくいです。
この判断は、徳川家康にとって難しかったはずです。
なぜなら、事の大きさを考えると、簡単に片づけていい話でないからです。
だからこそ、謹慎の命に応じ、浅野長政が隠居するという選択をしたことに安心したのでないでしょうか。
暗殺の疑いがあった時から、もしかすると浅野長政は徳川家康につく判断をしていたのかもしれません。
関ケ原の戦いでは、東軍につき、江戸城の留守居を務めました。
豊臣秀吉から信頼されていた浅野長政も、家臣同士の不和により、徳川家康と共に歩む道を選びました。
信頼していた家臣がまた1人抜けてしまう、豊臣政権の悲劇が起こってしまったのです。
とはいえ、その後の浅野長政の人生が隠居時の不穏な様子から一変したのは、先述した通りです。
徳川家康暗殺の嫌疑により、一時は表舞台から退いたものの、晩年は家が存続し、穏やかに過ごすことができました。
豊臣政権に欠かせない人物を、徳川家康も重用したのです。
まとめ
今回は、浅野長政の生涯とエピソードをご紹介しました。
織田信長の家臣から始まり、豊臣秀吉の姻戚関係となり家臣としても仕え、豊臣政権の内政を担っていく立場となります。
太閤検地を成功させ、信頼されていた人物であると同時に、五大老の徳川家康とも親しい関係を築いていました。
徳川家康暗殺の嫌疑で人生が一変したものの、浅野長政が天下人たちから重用された事実に変わりありません。