平安時代に後一条天皇の摂政となり栄達した藤原道長の妻といえば、まず源倫子がいます。
道長が出世したのは倫子のおかげという説もあるのですが、具体的にはどのように道長を支えていたのでしょうか?
藤原道長の妻、源倫子について解説します。
源倫子の生涯
源倫子(みなもとのりんし/みちこ)は、964年に土御門邸で誕生しました。
父は左大臣源雅信で、倫子は宇多天皇のひ孫にあたる血筋です。
当初、倫子を天皇の后にしたいと雅信は考えていたのですが、年齢やタイミングが合わなかったため、藤原氏出身の母の希望によって藤原道長と結婚しました。
結婚した当時、道長は22歳で倫子は24歳と、当時においてはかなり晩婚でした。
鷹司殿と呼ばれ、988年に後の一条天皇中宮となる長女の彰子を、992年に長男の頼道を出産します。
また、道長は長男が生まれた前後で、源明子とも結婚しています。
さらに次女、次男と出産した倫子は、998年正月の女叙位で従五位に叙せられ、10月には従三位に叙されました。
従三位となったのは、道長の姉の詮子の推挙であり、同時に長女の彰子の入内の補佐、並びに後見のためといわれています。
999年には、後に御一条天皇中宮となる威子を出産し、1000年に彰子が立后した際は従二位に叙されました。
正妻である倫子の子どもたちは、明子の子どもたちよりも優遇される傾向が目立ってきた頃でした。
また、1006年には一条天皇が花見のために東三条院邸と一条邸を御幸した際は、正二位に叙されています。
さらに1008年には従一位となったのですが、倫子が従一位となったのは道長の代わりともいわれています。
女性で従一位になったのは、過去に基経の娘で藤原氏宗の後室だった藤原叔子がいるのですが、叔子は女官として働き尚侍となったうえ、猶子の定省王が宇多天皇として即位したという理由があったのですが、無官のままで従一位になったのは倫子が初めてでした。
1027年に道長が死去し、長女の彰子以外の3人の娘にも先立たれたことで1039年に出家し、清浄法と号します。
以降は菩提を弔い、1053年に90歳で死去しました。
源倫子のエピソード
源倫子は、藤原道長の出世を支えた人物で、道長との夫婦仲も良好であったと伝えられています。
倫子がどのような人物なのか、伝わってくるエピソードを紹介します。
倫子は官位こそないものの、道長と一緒に行動していることが多く、公私ともに支えあっていたことがわかります。
単に仲のいい夫婦というだけではなく、仕事や政治の面でもいいパートナーだったといえるでしょう。
一方で、道長の姉である東三条院藤原詮子との仲も良好であったといわれています。
従三位になる際も推挙してもらえるような仲を築き上げたことで、道長の権勢もしっかりと固めることができたのです。
道長が摂政になったのは、藤原道隆と藤原道兼が相次いで死去したことも理由の1つでしょう。
しかし、他にも候補者がいる中で摂政に就くことができたのは、倫子と詮子の中がよかったというのも大きな要因でしょう。
また、堅苦しい女性というわけではなく、砕けた一面を見せることもあります。
長女の彰子が入内した際に、仕えていた女性の中には紫式部もいたのですが、紫式部の日記には倫子から手紙が届いたことも書かれています。
手紙には、倫子から肌の衰えについてからかう文と菊の露が届いていた、と記録されています。
倫子の方が式部よりも年上だったので、老化について気にせず笑いあえる関係だったことがわかるでしょう。
まとめ
藤原道長の正妻であった源倫子は、24歳と当時としては晩婚に入る年齢で結婚したものの、35歳までの間に2男3女を出産し、さらに43歳の時に四女を出産しています。
非常に仲睦まじい夫婦だったのですが、道長には他にも数人の妻がいて子どももいました。
しかし、特に倫子との間の子どもは、倫子の実家の力もあって優遇されていました。
道長も、男の価値は妻の家柄で大きく変わるといっています。