森可成の生涯

歴史

織田信長の旗下には有名な武将が多いのですが、特に猛将として有名であり天下布武を影で支えていた武将が森可成です。
信長の小姓として有名な森蘭丸の父親でもあり、織田軍団最古参の武将でもある可成は、どのような生涯を送ったのでしょうか?
槍の達人で攻めの三左とも呼ばれた森可成の生涯について、解説します。

森可成の生涯

森可成は1523年に美濃国に生まれ、若い頃は美濃の守護大名である土岐氏や斎藤道三に仕えていたとされ、尾張の織田信長に見出されてからは家臣となったのです。
信長への臣従は1550年代前半とされており、柴田勝家や林秀貞といった織田家生え抜きの武将たちとは異なる外様からのスタートとなりました。

しかし、可成は圧倒的な武勇と誠実な人柄によってまたたく間に信長の最側近へと登り詰めていったのです。
可成の最大の武器は、十四年間の戦場を生き抜いた比類なき槍術で、戦場では常に先陣を切って敵陣へ突撃していき苛烈な攻撃ぶりから「攻めの三左」と恐れられました。

信長の主要な初期の合戦にはほぼすべて従軍して軍功を挙げており、織田家内での蚋派との対立による内紛が起こった際も一貫して信長を支持していたのです。
1560年の桶狭間の戦いでは今川義元の大軍を相手に前線で奮戦し、かつての故郷である美濃攻略では案内役や交渉役としても活躍して稲葉山城陥落に大きく貢献しました。

信長が京都へ上洛した際には柴田勝家や蜂屋頼隆、坂井政尚とともに京都四人衆に任命され、織田政権の最高幹部として京の治安維持や政治交渉を任されたのです。
信長からの信頼の厚さは当時の織田家臣団の中でもトップクラスでしたが、宇佐山城の戦いで信長を救い壮絶な最期を遂げることになります。

1570年、織田信長は四方を敵に囲まれる信長包囲網に苦しめられていて、可成は近江国の要衝である宇佐山城の守備を命じられていたのです。
同年9月に信長が摂津で三好三人衆や本願寺と対峙している隙を突いて、浅井長政と朝倉義景の連合軍約3万が京都を目指して南下を開始します。

さらに比叡山延暦寺の僧兵も加わって織田軍を完全に挟み撃ちにしようと画策していたのですが、宇佐山城を守る可成の軍勢はわずか数千です。
圧倒的な兵力差を前にした可成は城に籠もるのではなく、「ここで敵を食い止めなければ京の信長様が危ない」と考えて自ら打って出る決断をします。

可成は獅子奮迅の働きを見せて浅井・朝倉の先遣隊を撃退し、数日間にわたり敵の大軍を足止めすることに成功したのです。
しかし9月20日、衆寡敵せず、激戦の中で可成は壮烈な討ち死にを遂げ、享年48でこの世を去りました。

この可成の命がけの抵抗によって浅井・朝倉軍の進撃は大幅に遅れ、異変を察知した信長は急ぎ軍を京都へと撤退させることができ九死に一生を得たのです。

可成の死後の森一族

森可成の報を聞いた信長は言葉を失うほど深く悲しんだと伝えられていて、仇を討つために比叡山延暦寺の焼き討ちという強硬手段に出ることになったといわれています。
また、可成亡き後は森家の家督を継いだ長男の可隆も戦死したため、次男の森長可が若くして跡を継ぐことになったのです。

長可はその獰猛な強さから「鬼武蔵」と称されて父譲りの武功を挙げ、さらに可成の三男の蘭丸、四男の坊丸、五男の力丸らは信長の小姓として取り立てられて寵愛されました。
彼らは1582年に起こった本能寺の変でも信長の世話をしていたため、炎の中で信長と運命を共にすることになったのです。

まとめ

森可成は織田信長の最古参の家臣であり、外様からのスタートになったにも関わらず圧倒的な武勇と誠実な人柄で最側近へと出世していきました。
「攻めの三左」と呼ばれるほどの総術の達人でしたが、宇佐山城の守備を命じられた際は数千の兵で攻めてきた約3万の軍を数日間足止めし、激戦の中で討ち死にしたのです。
信長は可成の死後も森一族を重用し、特に可成の三男の蘭丸は信長の小姓として有名な人物となりました。

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