佐々成政の生涯

歴史

佐々成政(さっさなりまさ)は、織田信長の親衛隊である黒母衣衆の筆頭として若き日から頭角を現した武将です。
信長への絶対的な忠誠心を持ち、本能寺の変の後は柴田勝家とともに秀吉と激しく対立していた猛将でした。
信長に殉じ、秀吉に抗い続けた「烈戦の智勇」の生涯を詳しく解説します。

信長の下での台頭

佐々成政は1536年に尾張国の比良城主・佐々成宗の子として生まれ、佐々家は織田家の初期からの有力な家臣だったため成政も若くして織田信長に仕えたのです。 兄たちが相次いで戦死したため家督を継いだ成政は、抜群の武勇と統率力を評価され信長の直属精鋭部隊である「黒母衣衆」の筆頭に抜擢されました。

桶狭間の戦いや美濃攻略など、信長の主要な合戦には常に馬廻り・親衛隊として従軍して信長の絶大な信頼を勝ち取っていったのです。
元亀・天正年間に入ると成政の活躍の場はさらに広がり、長篠の戦い(1575年)では滝川一益らとともに鉄砲奉行に任命され武田の騎馬隊を撃破する主力の一翼を担いました。

越前国の一向一揆が平定されると、柴田勝家の目付として前田利家・不破光治とともに越前府中を与えられ、府中三人衆と称されるようになったのです。
その後、成政は北陸方面軍の中心人物として上杉謙信没後の上杉軍と激しい死闘を繰り広げます。

1582年には上杉方の拠点を次々と落とし、越中国一国を与えられて富山城を拠点に内政と軍事に腕を振るったのです。

本能寺の変以降

1582年6月に本能寺の変が勃発した際、成政は越中で上杉軍と対峙しており身動きが取れませんでした。 遅れが運命を大きく変えることとなり、清洲会議を経て秀吉が台頭すると成政は織田家への忠義から恩人である柴田勝家や織田信孝と結び秀吉に対抗したのです。

1583年の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗死した後も、成政は越中で孤立しながらも秀吉への服従を拒否して翌年には徳川家康・織田信雄と結託して挙兵します。
小牧・長久手の戦いでは、かつての盟友であり秀吉方に就いた前田利家と末森城の戦いで激突することとなったのです。

しかし、信雄が秀吉と単独講和を結んだことで家康も撤兵して成政は梯子を外される形となります。
絶望的な状況の中、家康に再挙を促すため成政は厳冬の12月に積雪数メートルに及ぶ北アルプスを決死の覚悟で踏破する、「さらさら越え」を敢行したのです。

しかし家康を説得することはできず決死の外交は失敗に終わり、1585年に秀吉自ら10万の大軍を率いて越中に侵攻すると成政は抗いきれずに降伏することとなりました。
剃髪して恭順の意を示し、一命は助けられたものの越中を没収され大坂に蟄居することとなったのです。

その後、1587年の九州征伐での軍功が認められて成政は肥後国一国を与えられて大名へ返り咲きます。

しかし、秀吉からは急激な検地を行わないよう釘を刺されていたにもかかわらず、領国統治を急いだ成政は強硬に検地を強行したのです。
結果、検地に猛反発した現地の国人たちが一斉に蜂起して、大規模な「肥後国人一揆」が勃発してしまいます。

成政自身の力では一揆を鎮圧できず、豊臣軍の諸大名の援軍によってようやく平定されたものの成政は失政の責任を厳しく追及されることとなったのでした。
1588年には秀吉の命によって摂津国尼崎の法華宗本興寺にて切腹を命じられ、53歳でその激動の生涯を閉じました。

信長への忠義を貫いて不屈の意志で戦国を駆け抜けた成政の波乱に満ちた生き様は、今も富山の礎を築いた名将として、そして悲劇の英雄として語り継がれているのです。

まとめ

織田家の有力な家臣の家に生まれた佐々成政は、信長の直属精鋭部隊である黒母衣衆に筆頭に抜擢されて主要な合戦には馬廻・親衛隊として従軍し信長から深く信頼されました。 しかし本能寺の変が勃発した際は身動きが取れず、清須会議で秀吉が台頭すると対抗に回って賤ケ岳の戦いでも服従を拒否し、家康を説得するため「さらさら越え」を行ったのです。 降伏して大名となったものの、一揆の責任を追及されて切腹する最期を迎えました。

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