滝川一益の生涯

歴史

滝川一益は織田信長の天下布武を最前線で支え、「進むも退くも滝川」と称えられた戦国時代から安土桃山時代にかけての智勇兼備の武将です。
信長の側近から東関東管領までなったものの、信長の死後は秀吉と対立して激動の波に呑まれたのです。
織田家屈指の有能な将でありながら、時代の転換期に翻弄された生涯を解説します。

信長の下で栄華の頂点に

従滝川一益は1529年に近江国の甲賀忍者ゆかりの地で生まれたとされているのですが、出自には諸説あるのです。 鉄砲の扱いに極めて長けていたことから、若き日は各地を放浪して鉄砲の技術を磨いたとも言われています。

従兄弟にあたる滝川雄利らの仲介で織田信長に仕え始めると、卓越した鉄砲戦術と高い知謀が信長の目に留まり瞬く間に頭角を現していったのです。
一益は織田家の主要な合戦のほぼ全てで最前線に立って武功を挙げ続け、巧みな軍事指揮と攻め口の鋭さ、そして退却時の見事な殿能力から織田軍の万能将として活躍しました。

「進むも退くも滝川、命惜しくば米五郎左(丹羽長秀)」と敵味方から恐れられ、称賛されていたのです。
伊勢攻略では北伊勢の調略を成功させ、信長を大いに苦しめた長島一向一揆の鎮圧では九鬼嘉隆とともに水軍を率いて海上から包囲して壊滅させ伊勢長島城主に抜擢されました。

武田勝頼の騎馬隊を破った1575年の長篠の戦いでは鉄砲隊の総指揮官、または主力を構成して新時代の戦術を実践し勝利に大きく貢献したのでした。
1582年に織田家による武田征伐が始まると、一益は信忠軍の先鋒として武田領へ進撃します。

武田氏滅亡後は信長からその大功を認められて上野国一国と信濃国の2郡を与えられたのです。

さらに、関東の諸大名を統括する関東東国御取次、事実上の関東管領に任命され、厩橋城に入城します。
地方派遣の大名としては織田家臣団の中でも最高峰の権限と領地を与えられたことを意味し、一益の生涯における栄華の頂点でした。

失脚と対立

しかし関東赴任からわずか3ヶ月後に運命の本能寺の変が起こり、信長の急死を知った関東の覇者北条氏直は即座に大軍を率いて滝川領へ侵攻してきました。 一益は北条軍を迎撃すべく出陣し、緒戦こそ勝利したものの圧倒的な兵力差の前に神流川の戦いで大敗を喫することとなったのです。

一益は命からがら領国を捨てて伊勢へと敗走せざるを得なくなり、敗退と撤退戦に時間を取られたことが彼のその後の政治生命に決定的な致命傷となりました。
一益が命がけで伊勢に戻ったときには、すでに羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち果たした後でした。

さらに、織田家の後継者を決める清洲会議にも一益は間に合わなかったため出席権を失ってしまいます。
宿老の地位から転落した一益は清洲会議を主導した秀吉の台頭に危機感を抱き、柴田勝家や信長の三男の織田信孝と結託して秀吉への対抗姿勢を強めたのです。

1583年、秀吉と勝家が激突した賤ヶ岳の戦いにおいて一益は勝家側に立ち、伊勢の自城で秀吉軍を引きつける猛烈な籠城戦を展開します。
しかし、本戦で柴田勝家が自害したことで孤立無援となって秀吉に降伏し、領地を全て没収されて出家を余儀なくされたのでした。

その後、小牧・長久手の戦いで一時的に秀吉方に呼び戻されて参戦したものの、大きな成果を上げることはできず1586年に越前国の地でひっそりと58年の生涯を閉じました。
信長に愛されて戦国最強の「進むも退くも滝川」と謳われた名将は、天下の覇権が移り変わる一瞬の激流に呑み込まれ表舞台から姿を消したのです。

まとめ

滝川一益は親族の仲介で織田信長に仕え、卓越した鉄砲戦術と高い智謀で頭角を現し主要な合戦で最前線に立って武功を上げたことで「進むも退くも滝川」と称賛されました。 武田征伐では大功を認められて2群を与えられ、関東東国御取次に任命されて栄華の頂点を極めたのですが、本能寺の変以降は秀吉と対立して賤ケ岳の戦いで降伏したのです。 名将と謡われた一益ですが、時代の激流に飲み込まれてしまい静かに最期を迎えました。

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