織田信長の最高幹部として、また豊臣秀吉の天下統一の最大の引き立て役として戦国時代を寡黙に支え続けたのが丹羽長秀です。
長秀は抜群の事務能力と誠実な人格、そして信長への絶対的な忠誠心によって、織田家の双璧と称される地位を築いたのです。
激動の時代を実直に駆け抜けた丹羽長秀の生涯について、解説します。
織田信長と歩んだ時代
丹羽長秀は1535年に尾張国で丹羽長政の次男として生まれ、1550年頃から織田信長に仕え始めて信長の青年期からその側近として頭角を現したのです。 長秀は戦場での武功と、兵糧の調達や城郭建築などの内政の双方に極めて秀でていました。
当時の人々は彼を日常に欠かせないお米に例えて米五郎左と呼び、彼がいなければ織田家は回らないと評していたのです。
1563年に信長の美濃国攻略の拠点となる小牧山城の築城を命じられると、卓越した行政手腕で見事に完成させます。
その後も、信長の上洛作戦や各地の反乱鎮圧に従軍して軍事・内政の両面で織田家の屋台骨を支え続けたのです。
1570年代に入ると長秀は柴田勝家と並ぶ織田家の重臣として重用されるようになり、信長からの信頼の厚さは群を抜いていて信長の養女を長秀の妻としました。
また、のちに信長の五男・信房を長秀の養子に迎え、さらに羽柴秀吉は大先輩である柴田勝家と丹羽長秀にあやかってそれぞれの姓から一文字ずつもらったのです。
長秀の生涯最大の業績の一つは、1576年から始まった安土城の普請総奉行に就任したことといえます。
天下布武の象徴となる前代未聞の巨城を信長の厳しい要求に応えながら計画通りに完成させたことで、長秀の建築技術とロジスティクス能力の高さは日本中に轟いたのです。
1582年、長秀は信長の三男・神戸信孝を総大将とする四国征伐の副将に任命され、大坂・堺の地で出陣の準備を進めていました。
しかし、まさに渡海しようとした当日に京都で本能寺の変が勃発し、主君・信長が明智光秀に討たれてしまったのです。
大坂にいた四国征伐軍は動揺して兵の多くが逃亡して壊滅状態に陥る中で長秀は軍の崩壊を食い止め、備中から驚異的なスピードで引き返してきた羽柴秀吉の軍と合流します。
そして山崎の戦いにおいて秀吉と共に光秀を討ち果たし、主君の仇討ちに大きく貢献することとなったのです。
秀吉に仕えてから晩年まで
信長亡き後の織田家の進路を決める清洲会議において、長秀の選択は歴史の決定的な転換点となりました。 織田家の筆頭老臣である柴田勝家が信長の三男・信孝を後継者に推したのに対し、秀吉は本能寺で亡くなった信長の嫡男の信忠の遺児である三法師を擁立したのです。
長秀は、今後の天下を静謐に導く実力があるのは秀吉であると見抜き、秀吉派への支持を表明します。
長秀の決断によって会議の流れは完全に秀吉へと傾き、翌年の賤ヶ岳の戦いでも秀吉側に立ってかつての同僚である柴田勝家を滅ぼす側に回ったのです。
長秀は織田家を存続させるため、さらなる戦乱を防ぐためにあえて悪者となって、秀吉の天下取りを支えました。
秀吉の天下統一に多大な貢献をした長秀は、越前・若狭など123万石という広大な大領土を与えられて国持ち大名として最大の全盛期を迎えたのです。
しかし、1585年に長秀は51歳の若さで病没してしまい、死因は胃がんまたは重度の内臓疾患とされています。
一説には、急速に織田家を乗っ取り自らが天下人として君臨していく秀吉の姿に深い苦悩と憤りを抱き、自ら割腹して病巣を秀吉に送りつけたという壮絶な伝説もあるのです。
織田信長の信頼を受けて豊臣秀吉の天下の礎を築いた丹羽長秀は、常に組織の安定と主君への忠義のために働いて日本の歴史を裏から動かし続けた真の名将といわれています。
まとめ
丹羽長秀は織田信長に仕えて文武双方の分野で才覚を見せ、織田家は彼がいなければ回らないといわれるほど活躍して信長の養女を妻に迎え、五男の信房も養子に迎えたのです。 本能寺の変で信長が討たれると秀吉と共に光秀を打ち倒し、清須会議では秀吉を指示して戦乱を防ぎ秀吉の天下取りを支え、123万石の国持ち大名になりました。 51歳の若さで病没してしまったのですが、日本の歴史を裏から動かし続けた名将と称えられたのです。


