日本には多くの城がありますが、その中で江戸時代から現存している城は12城しかありません。
江戸時代に発布された一国一城令、そして明治の廃城令や第二次世界大戦が原因です。
その内の一つが、青森県弘前市にある弘前城です。
弘前城がどんな城か、これまでどのようなことがあったのかを紹介します。
弘前城とは?
1590年に津軽地方の統一を成し遂げた大浦為信は、豊臣秀吉から4万5千石の領地を得て、大浦から津軽に改名して津軽為信となりました。
1594年に大浦城から堀越城へと移動して、藩の基礎を整えます。
関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍について家康から2千石の加増を受けて弘前藩は4万7千石になります。
1603年に弘前城の築城計画を立てたのですが、翌年に為信が京都で死亡したため築城は中断され、1609年になって2代目の信枚が築城を再開します。
堀越城や大浦城に遺された建材も転用して急ピッチでの築城が行われ、わずか1年数か月後の1611年に弘前城が落成します。
別名は鷹岡城・高岡城と呼ばれていました。
1627年に落雷があり、弘前城天守が炎上して内部に保管されていた火薬に引火し、大爆発を起こして5層6階の天守と本丸御殿、諸櫓などが焼失します。
それ以降、天守がない状態のまま200年近く過ぎていきました。
当時は鷹岡城と呼ばれていましたが、1628年に天海大僧正が弘前と名付けたことで弘前城と改名されました。
そして、1810年になって9代目藩主の津軽寧親が山荘やぐらを新築したいと幕府に願い出て、本丸に現在も残る天守である3層3階の御三階櫓が建てられます。
その後、明治になり廃城令が出されて廃城処分となった後、旧藩主となった津軽氏が城跡を一般開放して市民公園にするために城地の貸与を願い出て認められ、弘前公園として一般開放されるようになりました。
1898年には、三の丸が陸軍兵器支廠用地となり、後には第8師団兵器部となりました。
現在は桜の名所として有名な弘前城ですが、実は桜が植えられたのは1903年になってからです。
1908年には、後の大正天皇が公園を鷹揚園と命名します。
そして、1937年に現存する建造物8棟が国宝に指定されます。
1950年には国の重要文化財に指定され、その2年後には国の史跡に指定されます。
また、国宝や重要文化財の指定では三の丸東門が除外されていたのですが、それも1953年に重要文化財として指定されます。
1985年に堀越城跡が国の史跡として追加指定されたことに伴って、弘前城の史跡名称が津軽氏城跡(弘前城跡)と変更されました。
2006年には日本100名城に4番目で選定されました。
しかし、2007年に天守付近の石垣壁面が経年劣化で膨らんでいるため崩落の危険性があると指摘されたことで、2012年に修理方針が決定され、2015年から天守を持ち上げる揚屋、天守を移動させる曳家が開始されます。
天守閣が基の一に戻るのは、2025年度を予定しています。
弘前城にまつわるエピソード
弘前城は、東北地方で唯一現存している天守です。
しかし、実際には天守ではなく、櫓として建設されているのです。
それは、一体何故なのでしょうか?
弘前城の元々の天守は、1627年に焼失しています。
そして、幕府に新築を願い出たのは1810年と、180年以上が経過してからのことです。
これは、蝦夷地警備の功で石高が増えたことがきっかけでした。
それまで放置していた天守を再建するとなると、何らかの理由が必要だったのです。
しかし、ここでもう1つ問題が生じます。
幕府はその頃、長期間にわたって城郭の修繕や新築を規制していたため、普通に天守を再建したいと言っても認められる可能性はまずないのです。
そのため、政府には櫓を新築するということで届出を出していました。
とはいえ、櫓もそう簡単に許可されません。
そこで注目されたのが、当時の重要な政策課題であった海防問題です。
櫓を建てて、膿への眺望を確保することで海防に役立てるという理由を付けて、許可を得ることができたのです。
そうして建てられたのが、3層3階の天守風櫓でした。
現存している天守の1つと言われる弘前城ですが、実際には城が建てられた頃から残っているわけではなく、幕末に再建されたものです。
それも、名目上は櫓として建てられていたのです。
しかし、弘前城の辰巳櫓、未申櫓、丑寅櫓の3棟の櫓は、当時から現存するものです。
また、城門も四ノ丸北門/亀甲門、三の丸追手門、三の丸東門、二の丸東門(東内門)、二の丸南門(南内門)の5棟の城門は、当時から現存しています。
現在、天守は津軽藩の歴史に関する資料を展示する資料館となっているため、中に入ることができます。
当時の貴重な資料が並んでいるので、歴史好きの人は一見の価値があるでしょう。
まとめ
弘前城は、日本で現存する12天守のうちの1つです。
東北地方では唯一残されているのですが、実は天守ではなく櫓として建てられたなど、変わった由来もあります。
現在、天守を移動して石垣を修繕するという歴史的にも珍しい作業をしている最中なので、過去に見たことがある人も移動した天守を見に行くなどの楽しみがあるでしょう。