本能寺の変の謎

歴史

織田信長が自害することになった本能寺の変。

しかしながら、本能寺の変にはいくつかの謎が残されています。

そしてそれらの謎は、未だに解明されていません。

なぜ本能寺でこのような事件が起こったのか、またその後の状況に関する謎について、今回はお話ししたいと思います。

本能寺で茶会が開かれた理由

本能寺の変とは、1582年に家臣の明智光秀によって織田信長が襲われた、歴史上でも有名な事件になります。

自害した場所が京都の本能寺だったため、「本能寺の変」と呼ばれています。

織田信長が京都まで赴いた理由は、当時備中(現在の岡山県西部)で羽柴秀吉が毛利氏と戦っており、その応援のために向かったとされています。

その道中、本能寺で茶会をしたために狙われたのでないかという謎があるのです。

実際のところ、茶会の予定日や開催の有無について正確な情報はありません

ですが、茶会を開くために織田信長が所有している茶器38点を、わざわざ京都まで持ち出していたのです。

わざわざ茶会を開こうとした理由は、何なのでしょうか?

貴重な品を持ち出してまで茶会を開こうとしたのは、同盟を結んでいた徳川家康を接待するため、海外遠征実現に向けての準備のためでないかということが考えられています。

海外遠征実現に向けての準備として考えられる根拠には、ある人物が関係しています。

それは、島井宗室。

島井宗室は博多の三傑に数えられる豪商の1人で、織田信長が将来的に狙っている九州から朝鮮、明への侵攻の鍵を握っている人物でした。

なぜかというと、島井宗室による食料確保と兵員と食料の船での輸送は、織田信長の陣営の力だけでは実現できないからです。

しかし、島井宗室の権力は大友宗麟から与えられた貿易特権によるもので、特権がなくなってしまうと豪商の立場が揺らいでしまうものでした。

時に大友宗麟が耳川の戦いで島津氏に敗れると、島井宗室は貿易特権が奪われる前に、織田信長に自身を保護してもらおうと考えました。

その際、楢柴肩衝という天下三肩衝に数えられている茶器を受け渡すことは、織田信長なりの保護の見返りだったのです。

島井宗室は本能寺の変が起こった時、実際に現地に滞在しており、巻き込まれたことが記録に残っています。

お互いに利害関係が絡んでいる取引ですが、安全な安土城でなく本能寺で行ったことで、織田信長が襲われる可能性が高くなったといっても過言ではありません。

織田信長の遺体はどうなったのか?

もう一つの本能寺の変の謎は、織田信長の遺体が見つかっていないことです。

本能寺の変では、織田信長以外に多くの焼死体が発見されました。

焼死体が多かったため、織田信長本人の遺体が見つからなかったのでないかと考えられています。

この他にも、遺体が消失してしまい見つからなかった、遺体はあったが僧侶の清玉上人が供養のために持ち去ったのでないかという説もあります。

では、どうして遺体が見つかっていないことが謎に数えられているのでしょうか?

遺体を確認することは、「織田信長が亡くなった」という証拠になるからです。

戦国武将が戦において、必ず敵方の武将の首を討ち取るのは、戦に勝った、活躍した証拠になります。

本能寺の変の場合、戦とは違いますが、謀反を行った証拠として主君の遺体や首が作法上必要になります。

ところが、遺体がないと証明するものがないため、謀反は正当化されません。

それだけでなく、織田信長はもしかしたら生きているのでないかと思われてしまうのです。

主君が亡くなった証拠がなければ、明智光秀は織田信長の家臣を引き入れることができません。

味方に引き入れるにしても、証拠がなければ家臣たちは行動できませんし、もし本当に生き延びていたら主君を変えたことに対し織田信長は黙っていません。

滅ぼされてしまう可能性があり、自分の立場が危うくなってしまうのです。

実際、本能寺の変の後、織田信長が生きているのでないかという噂が広がりました。

この噂の発信元は、羽柴秀吉です。

本能寺の変の後、織田信長が生きていて京都に潜伏している旨の書状を、近畿地方にいた有力大名に対して出していました。

本能寺の変に対して迅速な対応をとった羽柴秀吉は、一説によるとこの事件の黒幕でないかとも言われています。

本能寺の変の翌日にはすでに事件の情報を知っていたこと、毛利氏と戦っていたはずなのに和睦の準備ができていたことなどから考えると、事件への関与も否定できません。

そもそも本能寺の変を計画した黒幕の存在について、まだ不明確な情報が多くあり、決定打がない状況です。

先程、羽柴秀吉が黒幕でないかという説に触れましたが、他にも徳川家康や朝廷、織田信長と関係があったイエズス会が黒幕であるという説もあります。

誰がどのような事情で事件を起こしたにしても、織田信長に油断があったことも否めません。

油断大敵とは、まさに本能寺の変で織田信長に起きたことを表しているのです。

まとめ

本能寺の変には、数多くの謎が残っており、研究者の間で議論されています。

事件の起こる本能寺では、織田信長が接待や海外進出を実現するために茶会が開かれ、襲われる隙を生み出していた可能性があります。

また、織田信長の遺体が見つかっていないことも、事件の黒幕を不明確にしている原因になっています。

なぜ起こった事件なのか、謎の解明にはまだまだ時間がかかることでしょう。

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