高畑城の歴史と特徴

歴史

青森県と言えば有名なのは弘前城ですが、かつてはそれ以外にも多くの城がありました。
その中の1つに、高畑城があります。
高畑城という名称の城は全国にありますが、青森県の高畑城は現在の青森県平川市に合った城です。
高畑城がどんな城なのか、その歴史と特徴について解説します。

高畑城の歴史

高畑城の築城年は明らかになっていませんが、室町時代末期の1570年から1573年の元亀年間、あるいはその前に築かれたと言われています。
築城主は、滝本重行です。

当時、乳井薬師堂の乳井城(大隅館)の館主であり、乳井福王寺の別当であった乳井玄蕃は周囲に対して武威を揮い、周辺の南部氏とも対立していました。
しかし、玄蕃は1565年に大光寺城主であった滝本重行によって暗殺されてしまいます。

玄蕃の子である乳井建清は当時、まだ若年だったため仇討ちは自重していました。
高畑城が築かれたのはこの頃で、滝本重行が建清への備えとするためのものでした。
高畑城には、重行の家臣である平岡盛影が入ります。

1571年になると、後の弘前藩初代藩主の津軽為信である大浦為信が石川城を急襲して、石川城主の石川高信は自害します。
石川城はその後、津軽氏の所有となって津軽家臣である板垣将兼が守りました。

為信はそれに続けて、和徳城も吸収しています。
和徳城は現在に至るまで場所がはっきりとしていない城で、攻め込まれた際は小山内氏が城主を務めていました。

落城前、小山内氏側の兵は食料として青森の郷土料理であるけの汁を食べていたといわれています。
それを起源としてけの汁発祥の地という伝承があり、地元の有志団体が啓発イベントを行っています。

建清もそれに呼応して高畑城を急襲して、平岡盛影を討ち取り高畑城主となって大浦為信に臣従しました。

南部信直は為信を討つために勢多石隠岐盛の軍を送って攻め込んだものの、建清が善戦して敵を食い止めている間に兼平綱則が150の兵を引き連れて応援に駆け付けました。
また、この時九戸政実が謀反を起こすという噂が届き、勢多石勢は三戸へと引き上げていきました。

1579年、平賀郡に比山地方の比山六郎と七郎、知将と言われた北畠顕則、仇敵の滝本重行らが進入します。
これは、出羽国の大名である安東愛季の命によるものでした。
給料奪還と、為信討伐を目的として挙兵したのです。

兵数は1000を超え、比山軍は勢いに乗って攻め込んできます。
この時、高畑城は城主の建清が留守にしていたため、急襲を受けて落城してしまいます。
この時、合わせて乳井城、乳井茶臼館、乳井古館も落城しています。

しかし、沖館城を攻めたものの失敗した比山軍は乳井臼井館に引き返して立て籠ります。
それに対して為信は兵を集め、建清もそれに従いました。
そして、平川の支流である六羽川で両軍は激突し、六羽川合戦が起こりました。

その合戦で大浦勢と激突した比山勢は、一時は大浦本陣に迫っており、為信を討ち取るかと思われたのですが、建清らが奮戦して戦線が押し返されます。
遂には総大将であった六郎が討ち取られてしまい、比山勢は回覧してしまい滝本らは南部に蓄電し、大浦勢は勝利しました。

その後、高畑城については明らかになっていません。
建清は1582年に仇敵である滝本重行が居城としていた大光寺城の城主に任じられ、父の玄蕃が暗殺されたことから始まった乳井家と滝本家の抗争は、乳井家の勝利で幕を閉じます。

建清は1584年に死去しており、子どもは弘前藩士となって乳井貢などを輩出しました。
乳井貢は1712年に乳井建尚の子として生まれ、津軽藩の勘定奉行も務めました。
宝暦改革によって藩財政の立て直しに尽力し、宝暦の飢饉の際も餓死者を減少させることに成功しています。

高畑城の特徴

高畑城は、現在の青森県平川市高畑・吹上にあった平城です。
本丸、二郭、三郭によって構成される城で、本丸は長方形になっていて東西に約100メートル、南北に約70メートル広がっています。

二郭も長方形で、東西に約30メートル、南北に約70メートル広がっています。
三郭も同様に長方形になっていて、東西には約80メートル、南北は約60メートルありました。

各郭の四周には堀がめぐらされていたものの、平城なので防御力はあまりありませんでした。
それでも、建清は善戦して城を守り切りました。

高畑城が建てられていたのは高畑集落にある神明宮の北側一帯で、神明宮には標柱も建てられています。
現在、跡地は果樹園になっていて北側の堀跡にだけ名残が残されている状態です。

まとめ

高畑城は、後の津軽氏である大浦氏と深い関わりがあり、大光寺城主であった滝本重行によって築かれたものの敵対していた乳井に城主が入れ替わり、比山勢との争いもあるなど激しい戦いを経験した城でした。
平城であり守りが弱いと言われていましたが、それでも乳井建清は奮戦していたのです。
史跡に指定されておらず、現在はほとんど面影も残っていませんが、近くに行ったときは当時の様子に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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