徳川家康には、正室、側室を含めて息子がいました。
正室の築山殿との間に生まれたのが、徳川信康。
嫡男として将来を期待されましたが、それとは反対に徳川家康や家臣たちに暗い影を落としてしまった人物でもあります。
ここでは、多くの人に衝撃を与えた徳川信康の生涯とエピソードをご紹介しましょう。
徳川信康の生涯
徳川信康は、1559年に駿府で徳川家康の嫡男として生まれました。
幼名は徳川家康と同じ竹千代で、幼少期は今川氏の人質として扱われたため、駿府で過ごしていました。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、徳川軍の捕虜と人質交換の関係で、父の故郷である岡崎城に戻ります。
1562年の清州同盟の成立後、1567年に織田信長の娘である五徳と結婚しますが、2人はこの時9歳でした。
幼い子ども同士の結婚とはいえ、政治的な意味を持つことに変わりありません。
岡崎城で一緒に暮らし、元服した際に名を「信康」と名乗ることになりました。
1575年の長篠の戦いの時、徳川信康は17歳でしたが、徳川軍の一手の対象として戦に参加しました。
徳川信康が参戦した戦と功績の様子を見ると、武田氏との戦が多く、そこで功績を多く残しています。
戦での勇猛な行動が評価された一方で、家全体を揺るがず大事件が起こります。
それが、徳川信康自刃事件です。
1579年、徳川家康が岡崎城に来た翌日に城を出て、大浜城、堀江城、二俣城へ移動し、謹慎生活を送ります。
それから徳川家康に切腹を命じられ、21歳で生涯を閉じました。
切腹後、徳川信康の首は事件の発端となった織田信長の元に送られ、その後若宮八幡宮に葬られました。
自分の息子に切腹を命じなければならなかった徳川家康や親しかった家臣に、消えることのない傷が残ったことは、容易に想像できます。
天下を取った徳川家康でさえ、回避することができなかった大事件と言えます。
徳川信康のエピソード
徳川信康自刃事件の背景には、母の築山殿が武田氏への内通に加担していた疑惑や、嫁姑関係の悪化が織田信長に伝わったことが関係していると考えられています。
単なる偶然かもしれませんが、徳川信康の周囲で多数のトラブルが発生した状況でもあります。
上記に加え、近年は徳川家康との親子関係に関する説も有力だと考えられています。
父子不仲説では、切腹を命じた経緯が織田信長との関係を重視したためでなく、両者が対立したいたことが原因だとしています。
戦での活躍も多く、功績を残していた息子に対し、父である徳川家康は何を思っていたのでしょうか?
そもそも徳川家康と徳川信康は、別々の城に住んで生活をしていました。
徳川信康が結婚した際に岡崎城を譲り、徳川家康は浜松城に移ったのですが、幼い息子夫婦を城に残したのは配慮によるものなのでしょうか。
短期間であっても親として一緒に過ごすことは、あり得たはずです。
それをしなかったということは、嫡男としての自覚を促す目的もあれば、単に距離を置きたかっただけかもしれないでしょう。
親子仲が悪いと考えられる要因の一つに、幼少時の徳川家康の教育観が挙げられます。
徳川家康は幼い我が子に対し、成長してくれればそれで良いと考えていたそうです。
一見すると、無事に成長すれば問題ないと大らかに考えているように思えますが、跡継ぎとしての意識や教育に関して自分は無関係だと受け取ることもできます。
もしかすると幼少期の徳川信康の教育は、正室である築山殿や近くにいた家臣、今川家の人間が行い、父が関与する機会が少なかったのかもしれません。
このような状況で生活していたならば、自分の理想と違った形で成長していてもおかしくありません。
実際に成人してから、徳川家康を敬わなかったという記録も残っています。
所謂、幼少期からの教育が失敗した結果、不仲になったとも言えます。
もちろんこれは徳川家康の視点から考えられることであって、子どもである徳川信康の本当の気持ちを知ることはできません。
そして事件が起こった時、徳川家康の子どもは徳川信康の他にもいました。
この時、2代目将軍となる徳川秀忠や、諸事情があったにせよ結城秀康も生まれており、息子がたった1人しかいないという状況ではありませんでした。
もし嫡男に何かあれば、他の子を跡継ぎにすることも可能だったのです。
そうなると、不仲で価値観の違う徳川信康を必死で守る必要があるでしょうか。
絶対に嫡男が徳川信康でないとなければならないとする状況とは、言えないはずです。
親心が全くないとは言いませんが、戦乱の時代です。
交渉の際に何を優先すべきか、自ずと見えてくるでしょう。
親子であっても、冷酷な決断を迫られる時があります。
徳川家康にとっては、自刃事件がその時だったのです。
父子不仲説から、徳川家康の違った一面を知ることができます。
まとめ
ここでは、徳川信康の生涯とエピソードについてご紹介しました。
徳川家康の嫡男として生まれ、戦で功績を残し、将来が明るいものだと誰もが信じていました。
ところが、切腹を命じられ、予期せぬ形で生涯を閉じてしまいます。
親子が不仲だったことも切腹を命じた原因の一つとして考えられており、親子の情がないとは言えませんが、冷徹な判断に踏み切れたことの説明がつくでしょう。