悲劇の側室「お万」(長勝院)

歴史

側室の中でも激動の人生を送ったのは、お万です。

最初の側室になったものの、穏やかな人生を送ることは許されませんでした。

特に息子を巡っては、穏やかではいられなかったでしょう。

ここでは徳川家康の側室という立場に翻弄された、お万の生涯とエピソードをご紹介します。

お万の生涯

お万は、1548年に三河国知鯉鮒明神の神職、永見貞英の娘として生まれます。

名には万、於古茶などがありますが、徳川家康の家臣であった本多重次からは「おこちゃ」に見えるため、「おこちゃ」と呼ばれていたそうです。

ところで、徳川家康とはどのようにして出会ったのでしょうか?

出会いは、お万が正室の築山殿の女中をしていた時になります。

奥女中として働いていた時に徳川家康の手付となり、子どもを産みました。

お万が生んだ子は男子の双子、これが問題視されます。

一般的に子が生まれるのは喜ばしいことですが、徳川家康や周囲の人々の目は違いました。

当時、双子のことを「畜生腹」と呼んでおり、命を懸けて子どもを産む女性に対して乱暴な言葉がかけられていたのです。

徳川家康にも事情があったのかもしれませんが、お万の出産を歓迎していなかったことが分かります。

双子の一人は他の家に養子に出され、もう一人の息子は残りましたが、徳川の姓を名乗ることが許されませんでした。

この息子が、後の結城秀康となる於義伊になります。

側室になったことで、お万やその息子の人生が大きく変わったと言えるでしょう。

そして1584年、結城秀康は11歳の時、豊臣秀吉の養子となります。

元服後に秀康に改名、結城晴朝の養女と結婚し、この時に結城姓を継ぐことになります。

関ケ原の戦いの後に結城秀康が北ノ庄城の城主になったため、お万もこれに同行しました。

1607年に息子の結城秀康が亡くなると、お万は出家します。

出家は徳川家康の許可なしに行われましたが、それに対し誰も止める者はいなかったそうです。

養子に出される形で2人の息子と会えず、唯一一緒に生活できた結城秀康との時間も、わずか7年という短期間で終わってしまいます。

自分の子どもと離れ離れになってしまう辛さは、母になった者なら誰でも共感できるでしょう。
そんなお万は、1619年に72歳で生涯を閉じました。

お万のエピソード

お万の人生を語る上で、双子を妊娠した出来事は欠かせません。

ところが、徳川家康から自分の子どもとして認められなかっただけでなく、浜松城にいることすら許されなくなったのです。

昔も現在も、妊婦に対して城内から追い出す行為は非難の的になるでしょう。

城内から追い出す行為は、自分の子どもとして認めないという意思を体現したものでした。

徳川家康の心境を理解した上であっても、お万はどうすることもできません。

この時、助け舟を出したのは徳川家康の家臣の一人、本多重次でした。

本多重次がお万の世話をしたため、無事に出産ができたそうです。

まさに、お万とその子どもの恩人と呼べるべき人物でしょう。

お万も、いくら正室や側室の関係性があったとしても、ここまでの対応をされるとは思っていなかったはずです。

さらに、出産後も悲壮な状況が続きます。

実は無事子どもを出産したことに対して、徳川家康が直接会いに来たり、祝いの言葉を送ったりしたことがありませんでした。

ここでも自分の子どもとして認めないという、一貫した態度が現れます。

他の子ども、特に男子なら盛大に祝われたため、これはあり得ない状況でした。

もしかするとお万も徳川家康に対し、一目だけでも子どもに会ってほしいという気持ちもあったかもしれません。

そこで活躍したのが、徳川家康の長男であった徳川信康です。

お万や子どもに全く会わない状況を不憫に思い、対面の場を設けられないか勧めたそうです。

徳川信康からすると、お万の子どもは自分の弟になりますから、父の対応に思うところもあったのでしょう。

生まれが双子だったから、正室との関係など思うところはあったかもしれませんが、お祝いも何もないという状況も寂しいものです。

対面を何度か勧めた結果、3年後にお万の子どもに会うことが叶ったのです。

徳川信康が尽力してくれたおかげだ、と言っても過言ではありません。

それからお万は息子を亡くし、72歳で亡くなるまで一人で生き続けました。

お万の悲しい人生に感情移入してしまいますが、少しだけ報われたエピソードもあります。

それは、お万の孫にあたる結城秀康の息子が、「松平姓」を名乗れたことです。

息子の結城秀康は、最期まで徳川姓を名乗ることを許されませんでした。

しかし、孫の代になると親族の松平姓を名乗ることが許されたため、一族としてようやく認められたのです。

お万の人生を考えると、この出来事は嬉しかったに違いありません。

同じ側室であってもお万の人生を振り返ると、いかに悲劇的であったのかが分かります。

まとめ

ここでは、お万の生涯とエピソードについてご紹介しました。

奥女中として働いていた際に徳川家康に手付され、双子を妊娠したことにより人生が大きく変わります。

誕生した双子は、徳川家康の息子として認められず、養子に出され離れ離れになってしまいました。

親子で過ごした時間も短く、その後出家し一人で過ごしていたようですが、心の傷が癒えることはなかったはずです。

タイトルとURLをコピーしました