武田氏と諏訪氏の家督を継いだ「武田勝頼」

歴史

武田信玄は有名な武将に数えられていますが、近年、息子の武田勝頼にも注目が集まっています。

武田信玄亡き後の武田氏は弱体化し、最終的に滅亡してしまいます。

その時、家督を継ぎ武田氏を率いたのが武田勝頼です。

ここでは、様々な議論がなされている武田勝頼の生涯とエピソードについてご紹介しましょう。

武田勝頼の生涯

武田勝頼は、1546年に武田信玄の4男として生まれます。

元服後は高遠城城主となりましたが、嫡男の武田義信に不満を抱かれてしまいます。

とはいえ、武田義信は後に武田信玄の暗殺を家臣が企てたとして幽閉され、廃嫡されてしまいます。

嫡男が廃嫡されたことで、武田信玄の後に家督を継ぐ者は誰かということが問題になりました。

この時、武田信玄の子どもで男子は7人おり、長男の他に、次男は盲目で寺に入っている状態、3男は早世していました。

そうなると、家督を継げる男子は限られてきます。

このような経緯から、武田勝頼は家督を継ぐに至ったのです。

少し時間を戻しましょう。

家督を継ぐ前の1565年、武田勝頼は同盟関係にあった織田信長の養女を正室に迎えることになりましたが、すぐに妻との別れの時が来ます。

1567年に嫡男を産んだものの、妻は難産で数年後に亡くなってしまうのです。

そして1573年に武田信玄が亡くなると、武田勝頼が家督を継ぎ、武田家当主となります。

しかしながら、武田信玄の家臣の中には武田勝頼だと頼りないと、当主になることを認めない者もいました。

その結果、勝頼派と信玄派の派閥争いが起こってしまったのです。

派閥争いで落ち着かない中、1575年の長篠の戦いで武田氏に転機が訪れます。

武田信玄が存命した時の武田軍とは打って変わって、長篠の戦いでは守りの戦いを強いられ、総崩れになる事態に陥ります。

さらに国の再建のため、上杉氏や佐竹氏と同盟を結ぶなど策を講じますが上手くいかず、かえって敵を増やす結果になりました。

それから1582年に甲州征伐が起こり、織田信長の侵攻を受け逃げ場がなくなった武田勝頼は、天目山棲雲寺に向かう途中、嫡男や正室とともに自害しました。

武田勝頼は37歳で生涯を閉じたと同時に、これにより甲斐武田氏が滅亡してしまいました。

自害の直前の心情を考えると、上手くいかない状況にやりきれない思いもあったことでしょう。

武田勝頼のエピソード

武田勝頼が家督を継いだ際、派閥争いが家中で起こりましたが、単に頼りなさだけが問題になっているのではありません。

実際、武田勝頼は初陣の際に勇猛な姿を見せ、それ以降の戦でも活躍ぶりを織田信長や上杉謙信が高く評価したほどでした。

となると、派閥争いが起こったきっかけは武将としてのセンスでないでしょう。

実は、武田氏の前に、すでに母方の諏訪氏の家督を継いでいたのです。

なぜ諏訪氏の家督を継いでいたかというと、武田氏に反発を抱く諏訪氏を統率するには、諏訪氏に関係する人物を据えた方がいいと考えたからです。

武田氏と諏訪氏は同盟を結んでいた時期がありましたが、武田信玄が父武田信虎を追放した際に縁を切ってしまいました。

その後諏訪領へ侵攻し、諏訪一族を滅ぼしたため、家臣の中からは諏訪氏に恨まれるのでないかと恐れていた声があったそうです。

武田勝頼の出生までの経緯を知ると、単純に武田氏の男子として捉えることができません。

もちろん、武田勝頼の母を側室に迎える際も同じような反発があったため、そもそも武田氏
の跡継ぎとしては認められなかったのです。

つまり嫡男の廃嫡後、他の兄弟が家督を継げる状況でなかったことから、仕方なく選ばれてしまったと言うこともできます。

存命時、武田信玄も他の家督を継いでいることを考慮して、武田勝頼の嫡男、武田信勝を次の当主にすると考えていたのです。

しかし、武田信勝はまだ幼少のため、元服するまでの間の一時的な当主としての役割を武田勝頼に求めました。

本意でなかったといえども、跡継ぎとしての役割は果たさなければと考えるでしょう。

これが後々の派閥争いのきっかけになってしまうことを、武田信玄は予見できませんでした。

もし、仮初の当主であったとしても正式な跡継ぎとして認めていたら、武田勝頼の周囲はどうだったでしょう。

前当主が決めたことだからと、武田信玄の家臣たちも納得できたかもしれません。

ですが、正式な跡継ぎとしなかったことで家中の対立を招いてしまい、武田氏は滅亡の道を突き進んでしまいます。

いくら武田勝頼が有能であったとしても、解決できる問題には限界があります。

父の代で有耶無耶にされていたことを解決しなければならないタイミングが、他の問題の解決と同時に来てしまったのは大変だったはずです。

武田勝頼が武将として有能であることに間違いはありませんが、出生や当主になった後の環境により、活躍に恵まれなかった人物だと考えられるでしょう。

後世の評価が分かれているのも、家督に関することが原因だと言えます。

まとめ

ここでは、武田勝頼の生涯とエピソードについてご紹介しました。

元々嫡男ではありませんでしたが、武田信玄の亡き後家督を継ぐことになります。

その際、家中で派閥争いが起こりますが、これには諏訪氏の家督を継いでいたことも関係しています。

武田勝頼の嫡男を正式な当主とするための一時的な当主という位置づけですが、有能さが分かるエピソードもあります。

よって、状況が違えばより高い評価を得ていたかもしれません。

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