波乱の人生を送った徳川信康ですが、彼にも信頼できる家臣がいました。
その一人が、大岡弥四郎です。
しかし大岡弥四郎は、謀反を計画したために処刑されてしまいます。
どうして謀反を計画するようになったのでしょうか?
今回は、大岡弥四郎の生涯とエピソードについてご紹介します。
大岡弥四郎の生涯
大岡弥四郎の生年は不明ですが、岡崎城主の徳川信康のもとで町奉行を務めていました。
それ以前は、侍と小者の間にある中間として働いていたそうです。
徳川家康から見ると、嫡男の傍で働いてもらっているということは、信頼の足りる人物であることが分かります。
実際、大岡弥四郎は能力に恵まれていたため、登用されています。
よって大岡弥四郎もまた、徳川氏の優秀な家臣の1人だったと言えます。
徳川家康と徳川信康の両者に仕え、浜松城と岡崎城を往復していたことは、『徳川実紀』に記載があります。
順風満帆に勤めを果たしていた大岡弥四郎ですが、1575年に大事件が起こりました。
それが、「大岡弥四郎事件」です。
これは、大岡弥四郎が同僚らと共謀して武田勝頼に内通し、武田軍を岡崎へ引き入れようとした事件です。
計画が事前に徳川家康に露見したため不発に終わり、事なきを得ます。
しかしながら、事件を計画した首謀者の1人である大岡弥四郎には処罰が下ります。
岡崎城及び浜松城下で引き回しされ、鋸挽きの刑に処されました。
そして、岡崎郊外で土に埋められ、首は通行人に竹鋸で引かれたという悲惨な死を迎えました。
また、処罰は家族にまで至り、大岡弥四郎の妻子も磔となりました。
娘も2人いたそうですが、徳川家康の嘆願のもと処罰は免れ、後に尼僧になったそうです。
謀反を計画しなければ、大岡弥四郎とその家族はこの後も平和にくらしていたことでしょう。
大岡弥四郎のエピソード
大岡弥四郎が謀反を起こした事件の経緯の詳細に関しては、諸説あります。
例えば、岡崎城内に武田氏が遣わした歩き巫女が入り込み、徳川信康を国主とする武田氏の提案に乗じて、築山殿も参加したという説です。
また、別の説では徳川家康が事前に謀反に対しての噂を知っており、信濃国に出入りする塩商人に申し付けて探らせていたとされています。
その中で、大岡弥四郎の人となりが少し分かるエピソードが残っています。
大岡弥四郎は、能力に恵まれていたことから、徳川家康、徳川信康親子共に気に入られていました。
それは良いことであるのですが、大岡弥四郎の場合は違いました。
主君から厚い信頼があることで、家臣の中でも自分が一番だと増長してしまったのです。
その結果、他の家老が意見できないほど権力を振りかざすようになってしまい、大小様々なトラブルが起こるようになりました。
そのトラブルが、譜代武士との加増に関わるものです。
本来、武士にとって領地が増える加増は良い出来事なのですが、そうなったのが自分のおかげなのだと大岡弥四郎が言ったのです。
大岡弥四郎の口添えもあったのかもしれませんが、加増は武士の頑張りが評価されたものです。
大岡弥四郎の言葉に武士はひどく怒り、せっかくの加増を辞退してしまいます。
自分の実力や努力で得た評価でないとなると、嬉しくないのは当然です。
そして、話はこれで終わりではありません。
大岡弥四郎と武士とのトラブルは徳川家康も知ることとなり、横暴だったと判断されたのです。
一連の流れを知る関係者からすると、徳川家康の判断は正しいと思うでしょう。
このような経緯から罪を問われ、家財が没収されるに至りました。
その際、没収した家財の中から、武田勝頼に内通する書状が見つかったそうです。
武田氏と内通していたことが分かる説の1つですが、慢心することなく仕事に取り組んでいたという人物像から大岡弥四郎がかけ離れていたことが分かる説でもあります。
様々な説を考慮した際、もしかすると大岡弥四郎はどちらに味方をした方が有利になるか、打算的な考えを持っていたのかもしれません。
当時の勢力状況を見ると、徳川氏と武田氏なら、武田氏の方が有利でした。
自分の家の生存率を高めることを考えたならば、武田氏と手を組もうとするのは最善の策になるでしょう。
とはいえ、主君をないがしろにするような判断をしたのは好ましくありません。
同じように共謀に加わった同輩の松平新右衛門は自害、小谷甚左衛門は討死、倉地平左衛門は甲斐国へ逃亡する結果になりました。
また、事件に関与していない同輩の江戸右衛門七も、この事件の責任を問わされ、詰め腹を切らされることになったのです。
厳しい対応でしたが、再び同じような事件が起こらないようにするための意図があると考えるとどうでしょう。
このような結末は、家臣なら絶対に迎えたくないはずです。
この事件があったことから、大岡一族に配慮し、大岡氏でなく「大賀弥四郎」という名前になったのです。
まとめ
今回は、大岡弥四郎の生涯とエピソードをご紹介しました。
徳川家康、徳川信康親子に厚い信頼を寄せられ、出世してきた人物ですが、武田勝頼への内通が発覚してしまいます。
事件の経緯には諸説ありますが、横暴な対応を取っていたこともあり、優秀だったかもしれませんが、人望はあまりなかった人物だったのでしょう。
謀反は未遂でしたが、計画するだけでもどうなるか、大岡弥四郎を通して私たちも理解できたはずです。