藤原兼家が花山天皇を退位させるために協力したのは、3男の藤原道兼です。
藤原兼家が権力を握ったことで、誰もが協力者である藤原道兼にもその恩恵が得られるだろうと思うことでしょう。
しかし、栄華の恩恵を全て得られたわけではありませんでした。
今回は、藤原道兼の生涯とエピソードをご紹介します。
藤原道兼の生涯
藤原道兼は、961年に藤原兼家と時姫の間に生まれました。
984年に花山天皇が即位すると、蔵人左少弁になります。
当時、藤原兼家は妹詮子の子である懐仁親王(後の一条天皇)を即位させようと考えており、ちょうど藤原道兼は花山天皇を近くで支えていました。
そこで藤原道兼は、仏の教えを説き、自身も出家することを伝え、花山天皇に出家を促したのです。
そして986年の寛和の変で花山天皇の退位に成功します。
藤原道兼はこの時、花山天皇と一緒に行動していましたが、山科の元慶寺で「出家前に父に別れを告げたい」と言い、寺から立ち去ってしまいました。
同時に宮中で首尾よく準備していた藤原兼家と藤原道隆により、手筈通り幼い懐仁親王を即位させたのです。
その後、寛和の変の功労者である藤原兼通は、参議になったことを皮切りに、位階が正二位・権大納言へと進んでいきます。
計画の一端を担い、父の思惑通りに進んだのですから、出世の道という褒美が得られて嬉しかったことでしょう。
ところが990年に藤原兼家が亡くなると、空いた関白の籍に藤原道兼でなく、長男の藤原道隆が任じられました。
藤原道隆の政権下では、内大臣、右大臣へと任じられます。
995年に藤原道隆が病を患うと、藤原道兼にチャンスが回ってきます。
藤原道隆は自身の後継に嫡男の藤原伊周を望みましたが、一条天皇からの許しが得られず、そのまま亡くなってしまいます。
その後釜に選ばれたのは、藤原道兼でした。
ようやく大きなチャンスを掴めたと思った矢先、ほどなくして藤原道兼も病気になり、すぐに亡くなってしまいます。
関白宣下を受けてから亡くなった日までのことを、「七日関白」と称されることになりました。
僅かな期間でも関白の座にいられて良かったと考えることもできますが、同時に藤原兼通は35歳の若さで亡くなったことを悔やんでいたでしょう。
藤原道兼のエピソード
藤原道兼は、寛和の変における行動から考えると、高い地位にいてもおかしくない人物です。
しかし、関白は藤原道隆が任じられてしまいます。
この人事に対し、藤原道兼は当然不満を抱いていました。
確かに、花山天皇を出家させるきっかけをつくったのは、他でもない藤原道兼です。
彼がいたからこそ、藤原兼家の計画が成功したと言っても過言ではありません。
この経緯から考えると、関白の人事に対する不満や藤原道隆に対し憎んでいたことも納得できます。
実際に人事に対する不満から、藤原兼家の喪中には客を集め、遊んでいたそうです。
藤原道兼のちょっとした反抗というところでしょう。
しかし、関白人事の選定理由に対しては、藤原道兼だけでなく、藤原道隆も憎んでいたそうです。
従って、関白職の人事はお互いに納得できていないものでした。
このような事情を知ると、藤原兼家の息子たちは、自分の思い通りの出世ができなかったのでないかということが分かります。
また、藤原道兼と藤原道隆は、正反対の性格をしていました。
藤原道兼は、冷酷な性格をしていて、人々から怖がられていたそうです。
そして兄弟の順番を考えると、藤原道隆に意見するようなことがあってはなりませんが、いつも諭しているような関係性があったようです。
上記のような性格や雰囲気だとすると、昔から親しい仲であった以外の周囲の人は気軽に話しかけるような関係になるまで時間がかかったことでしょう。
反対に藤原道隆は、面白い話を好んだ朗らかな人で大酒飲みという、多くの人から親しまれやすい雰囲気を持った人物でした。
仕事の面においても気配りができるタイプで、多くの人から信頼を得ていたそうです。
藤原道隆の性格を踏まえると、兄弟において藤原道兼は小言を言いながらもサポートしていくタイプだったのでしょう。
ところで、上記のように性格面や実務面で判断されていた場合、関白選定の結果は違っていたでしょうか?
もしかすると、気配り上手だった藤原道隆が選ばれていたかもしれません。
確かに藤原道兼も男らしい、強い人物という印象がありますが、政治の世界はそれだけで回っていきません。
時として、柔軟さも必要になるのです。
才能など実務面の部分が判断されたならば、藤原道兼もここまで不満を抱かなかったことでしょう。
さらに、念願の関白に就任できても、タイミングが悪いことに病気になってしまい、権力を握ったという実感が得られなかったはずです。
現代人が藤原道兼の生涯やエピソードを見ると、タイミングの悪さに同情する人が多いかもしれません。
まとめ
今回は、藤原道兼の生涯とエピソードをご紹介しました。
藤原道兼は、寛和の変の功労者ともいえる人物ですが、父亡き後の人事に不満を抱きます。
その後、長兄の藤原道隆が亡くなると関白に任じられますが、タイミングが悪く病を患ってしまい、短期間しか権力を握れませんでした。
僅か35歳で亡くなってしまいますが、関白選定の状況が違っていたら、功が報われ誰も憎まずに過ごせたかもしれません。