紫式部の夫「藤原宣孝」

歴史

紫式部の活躍は、宮中によるものが多いです。

しかし、実生活においても知られていることが幾つかあります。

その1つが、紫式部の夫である藤原宣孝との生活です。

藤原宣孝はどのような人物で、紫式部との関係性は良好だったのでしょうか?

今回は、藤原宣孝の生涯とエピソードをご紹介します。

藤原宣孝の生涯

藤原宣孝の生年は不明ですが、藤原北家高藤流の権中納言・藤原為輔の子として生まれます。

円融天皇の時代には、六位蔵人兼左衛門尉を務めていました。

984年に円融天皇が花山天皇に譲位すると、院判官代に任ぜられ、その後は蔵人に転じました。

一条天皇の時代となった990年には筑前守に任ぜられ赴任、992年頃には大宰少弐も兼ねることになります。

ちょうどこの頃に、紫式部と結婚したとされています。

後に右衛門権佐として京官に復帰し、998年には山城守も兼ねます。

ところが、1001年に疫病のために亡くなってしまいます。

僅か2年ほどで、結婚生活が終わることとなりました。

藤原宣孝が亡くなったことに伴い紫式部が詠んだ和歌は、『紫式部集』に収められています。

藤原宣孝のエピソード

まずは、藤原宣孝の性格を知ることができるエピソードをご紹介します。

藤原宣孝は、『枕草子』にあるエピソードで登場しています。

それは、御嶽精進に関する話です。

御嶽精進をする際、一般的には身分の高い人であっても、地味な服装で参拝していました。

しかし、藤原宣孝は地味な服装では蔵王権現様に見つけてもらえない、何も粗末な身なりで参拝しろと言っていないはずだと言い、当日派手な服装で参拝したのです。

これには、話を聞いていた人が驚いただけでなく、現地の参拝者の注目も集めました。

参拝者から見られている状況に、普通なら自分が間違っている、礼を欠いてしまっていると感じてしまうはずです。

ですが、藤原宣孝は気にしませんでした。

そして、話はこれで終わりではありません。

そのような格好での参拝後しばらく経ってから、なんと藤原宣孝は筑前守に任じられたのです。

事前に参拝のエピソードを知っていた者なら、参拝に服装は関係なかったと再度驚いたでしょう。

平安貴族の間で、このエピソードは瞬く間に広まりました。

また、藤原宣孝が豪胆な人物だったと知ることができます。

加えて、人の目を気にするような人物でなかったことも分かります。

そのような性格は、夫婦関係のエピソードからも垣間見ることができます。

藤原宣孝と紫式部は、今で言うところの「年の差婚」にあたります。

2人の年の差は、15歳~20歳くらいあると考えられています。

よって結婚した時点で紫式部は29歳くらい、藤原宣孝は40歳~50歳くらいだったそうです。

年齢に大きな差のある2人は、どのような経緯で出会ったのでしょうか?

実は、2人の親が従兄弟同士だったことが関係しています。

紫式部からすると、全く知らない人から求婚されたのでなく、親戚関係のある人から求婚されたことになります。

平安時代は年の離れた人と結婚することは、それほど珍しくありません。

ですが、紫式部へのアプローチは積極的だったことが分かっています。

藤原宣孝が求婚していた時、紫式部は京都にいませんでした。

父藤原為時の転勤に伴って、当時は越前で過ごしていたのです。

住んでいる場所が離れていますから、アプローチするにも方法が限られるはずです。

それでも手紙が途切れることなく、紫式部が京都に帰ってくるまでアプローチし続けていたのです。

藤原宣孝は女性関係に積極的なタイプだったこともありますが、頻繁に手紙を出していたことに紫式部も興味を持っていたことでしょう。

何より紫式部は当時の女性の結婚年齢から考えると、晩婚にあたる状況でした。

結婚適齢期は10代でしたから、それに乗り遅れてしまっている自分に対し、思うところがあったはずです。

そのような自分に対し、遠く離れた地までアプローチをしてくれたため、もしかすると藤原宣孝のことを悪く思うことはなかったかもしれません。

実際に藤原宣孝の足が遠のいてしまうと、紫式部は「私に飽きてしまったのね」という意味の短歌を詠んでいます。

夫の足が遠のいてしまうことは、平安貴族の女性なら経験している人が多いです。

それを紫式部も経験したことで、少し前までは熱心にアプローチしてくれたのにと悔しい気持ちを和歌に込めたのでしょう。

とはいえ、藤原宣孝を大切に想っていたことに違いありません。

なぜなら、藤原宣孝の亡き後、不安や悲しさを紛らわせるために執筆していたのが源氏物語だと考えられているからです。

逆に言うと、そうしないと気を紛らわせないくらい、藤原宣孝の死がショックだったと考えることもできるのです。

藤原宣孝は、紫式部にとって忘れられないくらいの存在です。

引っ込み思案だった紫式部にとって、タイプの違う藤原宣孝は魅力的な人物であったことに間違いありません。

まとめ

今回は、藤原宣孝の生涯とエピソードをご紹介しました。

藤原宣孝と紫式部の結婚生活は、たった2年ほどで終わりを迎えてしまいます。

熱心なアプローチをした藤原宣孝は、京都から離れた地にいた紫式部の心を掴み、亡き後も忘れられないくらいの存在になります。

豪胆な人物でもあったことから、引っ込み思案だった紫式部も接しやすかったことが容易に想像できます。

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