上杉謙信と言えば、武田信玄と川中島の戦いで5度も対戦した武将で有名です。
北陸地方を支配していた武将ですが、どちらかというと私利私欲に拘らず、救援による遠征が多かったことで侵略を行わなかった武将と考えられています。
ここでは、上杉謙信の生涯とエピソードから、どのような武将だったのかを見てみましょう。
上杉謙信の生涯
上杉謙信は、越後守護の上杉家に仕える越後守護代の長尾為景の4男として生まれます。
幼名は寅年生まれということで虎千代と名付けられましたが、父から疎まれていたため、7歳の時に春日山城下の林泉寺に預けられます。
しかし、兄の長尾晴景に統治者としての才覚がなかったこと、病弱であったことから、上杉謙信は13歳の時に呼び戻され、長尾景虎と名乗り統治のために奔走します。
守護の上杉定実が亡くなると、長尾晴景から家督を譲られた上杉謙信は、19歳で守護代になりました。
さらに上杉定実には後継者がいなかったため、室町幕府第13代将軍である足利義輝から守護と同様の権限を与えられます。
その後、上杉謙信は22歳の時に、無事越後統一を果たしました。
1553年から、上杉謙信は武田信玄と川中島の戦いを繰り返すことになります。
加えて、1559年には小田原城の戦いで、北条氏とも対峙します。
長きに渡り武田氏や北条氏との争いが続きますが、武田信玄の駿河侵攻により武田氏と北条氏の関係が崩れます。
こうした状況の変化により、上杉謙信は北条氏康と和睦し越相同盟を結び、1570年に法号を「謙信」と称し、これ以降上杉謙信と名乗るようになります。
そして1573年に長年戦っていた武田信玄が病死すると、越中の平定に成功します。
1576年には反織田信長体制を築くため、室町幕府15代将軍である足利義昭の要請を受け、武田氏、北条氏の両氏と和睦を結びます。
越中平定後の上杉謙信の行動は能登国の平定を目標とし、その拠点となる七尾城の攻略に苦戦することになります。
七尾城を再度侵攻した時には、伝染病が流行し、多くの兵が病死してしまいますが、2か月後に攻略に成功します。
その後上杉謙信は次の遠征を予定していましたが、その前に脳出血で倒れてしまい、49歳で亡くなってしまうのです。
織田信長を打倒するための遠征か、関東を攻略するための遠征か、詳細は不明ですが、戦国最強の武将と呼ばれる上杉謙信も病気には勝てませんでした。
上杉謙信のエピソード
上杉謙信の有名なエピソードと言えば、川中島の戦いで塩を送ったことや、武田信玄との一騎打ちをしたことが挙げられます。
しかしながら、近年このエピソードに疑問があると考えるだけでなく、川中島の戦いそのものがなかったのでないかと考えている研究者がいるのです。
武田信玄との関わりが分かるエピソードである分、驚かれる方もいるでしょう。
ところで、上杉謙信の人となりが分かるエピソードがあります。
それは、自分の家臣が裏切った時の対応に関するエピソードです。
上杉謙信には北条高広と佐野昌綱という家臣がいましたが、どちらも謀反や反乱を起こし、命を狙われていました。
戦国の世において主君に対し謀反を起こすことが珍しくなく、それが起こった際には厳しい処罰を与えた武将が多かったです。
しかし、上杉謙信は2人に対し、命を取るようなことをしませんでした。
降伏をすれば、許していたのです。
上杉謙信の対応は甘いと感じる人もいるでしょうが、この対応には理由があります。
謀反や反乱を起こした相手にも事情があることを理解し、命を取らないことで心の広さを家臣に見せたのです。
過ちを犯してしまった家臣も、主君から許してもらえることで、心を入れ替え尽くそうと考えるチャンスが生まれます。
反対に、自身も手本となり規律を守り、破った場合には厳しく罰するという、厳格な一面も家臣たちに見せました。
例えば、上杉謙信の重臣であった柿崎景家は、織田信長と内通していると信じた上杉謙信により死罪に処されたそうです。
この説の真偽は議論されていますが、重臣でも厳格な処罰がなされたため、立場に関係なく規律を破った際は処罰されることが知れ渡ったことでしょう。
このような対応を取ることで、家臣たちに誠実な人物である信頼を得ようとしたのです。
謀反など起こるきっかけは、大きなトラブルがあった時に限られません。
ほんの些細なすれ違いでも、信頼が揺らぐ原因になり得るのです。
信頼関係を築くという意味で、上杉謙信の行動は理に叶っているのです。
とはいえ、上杉謙信の誠実さは計画的に作られたものではありません。
朝日山城を攻めた際に撤退しなかった吉江景資の子どもである与次に対し、死なせてしまったら彼の親に面目がたたないと、あえて陣内で拘禁したそうです。
部下であっても、命を大切に想っていることが分かりますから、元から義理堅い人物であるのです。
まとめ
ここでは、上杉謙信の生涯とエピソードを見てみました。
上杉謙信は幼少期林泉寺に預けられていましたが、事情が変わり兄から家督を譲られ、越後統一を果たします。
武田信玄とは川中島の戦いで何度も戦いますが、最強の武将といえども病気には勝てませんでした。
家臣との信頼関係を築くための行動は、元から義理堅い上杉謙信だったからこそできたものだったのでしょう。