藤原兼家によって退位させられた「円融天皇」

歴史


藤原氏が政治の実権を握るようになったのは、円融天皇の在位時です。
しかしながら、円融天皇の時代では前代未聞の出来事が多発してしまいます。
そのような中で政治をしなければならなかったため、苦労が多かったことでしょう。
今回は、円融天皇の生涯とエピソードをご紹介します。

円融天皇の生涯

円融天皇は第64代天皇で、959年に村上天皇の第5皇子として生まれます。
中宮藤原安子の子どもとしては、3番目の皇子になります。
964年に藤原安子が崩御すると妹の藤原登子に育てられ、他の兄妹と共に藤原安子の弟である藤原兼通に守られていました。

円融天皇は、数え年11歳の時に即位します。
即位の背景には、兄の冷泉天皇の即位後に立太子を巡り、藤原氏と左大臣源高明の対立がありました。
その後、安和の変が勃発すると源高明は失脚し、元々藤原氏が主張し皇太子となった円融天皇が即位したのです。

所謂、藤原氏が推薦した者が、狙い通り天皇に即位したと言えます。
始めのうち藤原兼家は、円融天皇に対し、娘の入内を考えていませんでした。
なぜなら、円融天皇は冷泉上皇の子が成長するまでの中継ぎの天皇として見なされていたため、重要だと思われていなかったのです。

ですが、円融天皇の後見として藤原兼通が浮上し、政治を円融天皇、藤原兼通が主導する体制になると状況が一変します。
978年に藤原兼家が次女藤原詮子を入内させ、980年に懐仁親王(のちの一条天皇)を儲けましたが、中宮亡き後には藤原頼忠の娘尊子が冊立します。
藤原兼家が思うままの政治をさせないような体制が整っていたため、様々な場面で対立関係は続いていきました。

とはいえ、その対立関係は984年に緩和され、懐仁親王の立太子と引き換えに、冷泉天皇の皇子師貞親王に譲位します。
その後986年の寛和の変で一条天皇が即位した際は、幼帝を指導する立場となり、強い発言力を持ちました。
これには院政の意図があったとされていますが、同時に当時摂政だった藤原兼家と意見の対立もあったようです。

藤原兼家と対立し続けた円融天皇は、991年に崩御します。

円融天皇のエピソード

円融天皇の時代は、まさに藤原氏に振り回されたと言っても過言ではありません。
特に、藤原兼通と藤原兼家の兄弟仲のあまりの悪さに、頭を悩まされました。
円融天皇は仲の悪さを話だけでなく、実際に目の当たりにしています。

それは、藤原伊尹が亡くなった後、藤原兼通が関白になった時です。
藤原兼家は、自分が将来の関白になるべきだと主張しましたが、最終的に藤原安子の遺言通りに年功序列で決める意に従いました。
この激しい口論は円融天皇の目の前で行われたので、藤原兼家に対し出世欲の強い人だと思ったのかもしれません。

藤原兼家に対する印象は、ここで決まったのでしょう。
また、円融天皇は天皇親政の実現を諦めていなかったこともあり、藤原兼家が要職にいられると困ることも関係していました。
藤原兼家が要職に就かないよう様々な手で牽制してきましたが、冷泉天皇との親戚関係の影響で政治に介入する隙を与えてしまいます。

そんな円融天皇は、あっけない形で退位することになります。
藤原兼家の娘が中宮になれなかったことを理由に、なんと出仕をやめてしまったのです。
この行動に対し、円融天皇は譲歩して退位しました。

当時の結婚は通い婚だったため、生まれた子どもは妻の実家で育てられることになります。
円融天皇は、次に選んだ中宮との間に子どもがいませんでした。
しかし、藤原兼家の娘との間には懐仁親王がいたため、要求を呑まなければ子どもに会うことができません。

これには、円融天皇も困ったはずです。
藤原兼家のわがままとも言える行動で、円融天皇の進退が決まってしまったと言っても過言ではありません。
このような経緯で退位したことから、一条天皇が即位した時にもサポート役として、藤原氏から守るべく行動したのでしょう。

しかしながら、一条天皇の時代も努力も虚しく、後に即位した天皇たちも藤原氏の影響を大きく受けてしまうことになります。
藤原氏の勢いを抑えることができなかったことは、悔しかったはずです。

そもそも幼い円融天皇が即位したのは、冷泉天皇が藤原氏の影響で立場を投げ出してしまったところにあります。
そして円融天皇の摂政は1人が長続きせず、立て続けに3人が亡くなってしまったため、より権力争いが激しくなる原因となりました。
円融天皇が天皇親政を行おうとしても、元から権力争いが激しい状況では厳しいことに変わりありません。

どんどん昇進の道が開かれる状況を止めるが厳しかったのか、数々の藤原兼家対策は上手くいきませんでした。
円融天皇の苦労は、私たちが思っている以上のものだったのでしょう。
円融天皇の時代は、藤原氏の権力争いが激しくなっていった時代と言い表してもいいくらいです。

まとめ

今回は、円融天皇の生涯とエピソードをご紹介しました。
円融天皇の即位には藤原氏が関係しており、常に権力争いが絶えなかった状況でした。
特に藤原兼通と藤原兼家の争いには頭を悩ませており、口論の様子を直接見ていた時もありました。
藤原兼家の権力欲を目の当たりにしたためか、政治に介入できないようにしてきましたが、最後は家族会えない状況に陥り、退位せざるを得なくなったのです。

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